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言葉の選択による効果について

 小説に限らず、何かしら文章表現をしてみようと思ってから比較的早期に引っかかってしまう問題に、「ようだ」の連続があります。比喩表現をしようと思うと、けっこうな頻度でこれが出てくるし、しかも比喩以外にも例示というこれまたメジャーな用法が「ような」にはあります。「ボールのような丸いもの」というフレーズでの働きがそうですが、引き合いに出す用法が例示ですね。「綿のような雪」というフレーズでは、綿と雪は違うものであってどちらかがどちらかに属しているわけではないので比喩です。一方、ボールは丸いものに属しているので、例示だと言えるわけですね。
 さて、自分や他人、あるいは小説内に出てくるキャラクターの内面だとかを描写したり、何かしらの光景なんかを描写しようとすると、どうしても「ような」は出てきます。二回か三回くらいならまだ……と許せても、五回も六回も出てくるとさすがに下手糞感が漂ってきて書いている身としてはわりと辛い気分になってきます。だからなるべく違う語を使うわけですが、挙げてみるとけっこうレパートリーはあるわけですね。「~のような」の代わりとしては、~みたいな、~に似た、~を思わせる、~と同じ、~と重なる印象の、~を象った、~を模した……もう少し出てきてほしいところですが、僕がよく使うのはこの辺でしょうか。これらはかなり高い頻度で「~のような」に置きかえることができますが、状況によっては例外的に、もっと特殊な語でも可能だったりします。まあ今回はそれが本題じゃないので省きます。
 さて、「~と同じ」という表現は、いつも「~のような」の代わりになるとは限りません。「彼の手の平は、太陽のような優しいあたたかさを持っていた」というフレーズでは、「太陽と同じ優しいあたたかさを持っていた」としてもほぼ同じ意味で通じます。しかしこの表現をすると、「太陽」という語にかなりの注意が向くようになります。そもそも「太陽と『同じ』あたたかさ」という表現において「同じ」自体がまず比喩ですし、引き合いに出すよりも同じだと言っている方が類似性は高いものとして主張されているわけで、つまり「彼の手が持つ優しさ」の"太陽っぽさ"がより強調されることになるわけですね。だからその前後に、もっと注目してほしい箇所がある場合、この置き換えは望ましくありません。
 もっとわかりやすい例で言えば、「砂のような無味な食べ物だった」という表現を「砂と同じ無味な食べ物だった」とすれば、食べ物の無味性を主張するだけでなく砂が食べ物であると間接的に主張してしまうことになり、???となってしまいます。もっと変な例で言うなら、「彼は太陽のような人だ」を「彼は太陽と同じ人だ」とすれば、もはや彼は人間ではありません。どうしても「~のような」を避けて「~と同じ」を使いたいなら、「私にとって、彼の明るさは太陽と同じものだった」とか、もう少し自然にするなら、「心を明るく照らしてくれるという点で、彼の存在は、私にとって太陽と同じ働きをするものだった」とかになります。後者はなんだか哲学者の自伝みたいですが、まあこれも結局そこそこ硬めの文体にしか合わないものなのでどうやっても不適切な場合はあります。そもそも「~と同じ」を比喩に使うこと自体けっこう硬い表現ですからね。
 このように、ある表現を代替できる別の表現も、状況が限られているということが言えます。「~を象った」なんて、「猫の顔のような形をしたマーク」というフレーズを「猫の顔を象ったマーク」と言い換えられるのは、そのマークをデザインした人が猫を意識してデザインした(であろう)という事実があるからです。「冬のような寒さ」を「冬を象った寒さ」とはできないように、「~を象った」を使える機会はかなり限られてくるわけです。

 さて、振り返ってほしいのはさっき挙げた、「太陽性」の強調のされ方が「~のような」と「~と同じ」のどちらを採用するかで変わってくるという例です。こんなふうに、微妙な差がある言葉を頑張って使い分けて、伝わるニュアンスをそれなりに頑張って操るのが文章を書く上での苦労の一つです。要するに伝わる内容の差を考えて、表現を工夫するのがレトリックというやつなんですよね(多分)。たださっき挙げた例では、結局程度問題じゃないかと片付けてしまう人もいるので、もっと大きく働くレトリックを説明したいと思います。
「平凡な」という言葉がありますね。これによく似た、そして代替できるものには、よくある、普通の、凡庸な、通り一遍の、適当な、といったものがあります。しかしここで、「低俗な」といった表現を使うとどうでしょうか。
 お金がないせいでお腹を空かしている人にはお金をあげればいい、という提案を「平凡な発想」と表現するのと「低俗な発想」とするのでは意味が違います。もっと意図してニュアンスを強めるなら、「俗悪な発想」ともできるでしょう。
「平凡なファッションセンス」というフレーズを「低俗なファッションセンス」「俗悪なファッションセンス」とすれば、やはりまた意味が異なります。俗、という漢字が伝えるニュアンスは、普通、というものに加え、程度が低いとか下品だとかいったものを含みます。
 わかりやすい例として、少し前までの新明解国語辞典における「俗人」の項を参照してみます。第七版現在ではだいぶ大人しくなったようですが、それ以前においてはこんな風に説明されていました。

(一)高遠な理想を持たず、すべての人を金持と貧乏人、知名な人とそうでない人とに分け、自分はなんとかして前者になりたいと、そればかりを人生の目標にして・暮らす(努力する)人。

(ニ)天下国家の問題、人生いかに生きるべきかということに関心が無く、人のうわさや異性の話ばかりする人。
(三)高尚な趣味や芸術などに関心を持たない人。


 これはかなり厳しいですね。しかし、俗という字が伝える意味とはおおよそ誰に対してもこんなところではないでしょうか。俗物のおっさんというものを思い浮かべるなら、金に汚く、出世することばかり考え、他人の評価を気にしてへつらって行動し、そのくせ異性に対する欲求は強く、内心では女性を一人一人価値づけてその上位にある女性と接触する機会をうかがっている──といったところではないでしょうか。したがって、低俗な発想、低俗なファッションセンスとは、平凡な、という言葉が伝える以上のものを伝えることになるわけです。
 こういう微妙な言葉遣いの差からくる意味の差によって、文章が与える体験はガラッと変わってしまう。いや、時としては異なる事実を伝えることもあります。実際、この文章を読んでいる人は今そのような体験をしたわけですね。上の段落を振り返ってみましょう。

 俗物のおっさんというものを思い浮かべるなら、金に汚く、出世することばかり考え、他人の評価を気にしてへつらって行動し、そのくせ異性に対する欲求は強く、内心では女性を一人一人価値づけてその上位にある女性と接触する機会をうかがっている──といったところではないでしょうか。


 おっさんという表現はもちろん男性を指しています。そして性欲が強い結果、自分にとって価値のある女性を追い求めるというわけですが、この表現はあることを間接的に主張しています。それは「普通の状況というのを考えるにおいて同性愛者は無視できるほどに少数である」ということです。繰り返しますが、俗という漢字を含む語はおおよそ、普通の、という意味を含んでおり、俗物という語もまた例外ではありません。つまり、俗物の男とは何かを説明するにあたって女性のことばかり考えていると述べるのは、普通の男の性欲は女に向くんだ、と言っているわけです。
 もちろん、実際問題として同性愛者はかなりの少数ですし、この表現はそう大きく誤ったものではないと考えられます。しかしそれはこのブログを現在読む人、おそらく日本に住んでいて、2017年付近の現在を過ごしている人においてです。例えば、ニューハーフの生徒が非常に高い割合を占めている学校などにおいては──現にそのような学校は例えばタイに存在します──この表現は明らかに誤りですね。そしておそらく、単なる事実誤認という問題だけでなく、同性愛者の存在を無視してあたかも存在しないかのように抑圧する態度の表れではないかという批難さえ起きうるわけです。アメリカなんかでは同性愛者に配慮して法律を改正するよう求める運動が盛んだったりするわけですが、その人の前で上に書いたような表現をするのは明らかに失礼だということですね。
 しかしこんな風に考えると、どのような表現ですらも他人を傷つけうるという事態が容易に起きるのだともわかってもらえると思います。このような状況ではこのようにするのがよい、という表現は、そのような状況でそのようにはできない人を傷つけうるわけです。障害者の方はおそらくしょっちゅうそのような事態に直面しているのでしょう。
 ではどうするべきなのか?その結論は簡単には導き出せない。僕自身は、自分が書く小説においては頑張ってレトリック上の立ち回りをすることで、読者が作品に触れて体験する世界をどうちゃらこうちゃらというくらいの心がけは一応持っています。内面における相対的な事実というものを表すのに、レトリックという現象における語の恣意的選択性はまさにちょうどいいわけです。それがたぶん、小説を書く楽しみの一つなんでしょうね。
 もちろん、ある程度の配慮をすることは一応できなくはない。自分とはあまり関係のない人たちのことを「その辺のようわからん奴ら」とかいった雑な言葉で表現するとまずいというくらいの意識は持っても構わないのかもしれません。
 もっとわかりやすい例で言うなら、東日本大震災、という通称は、あの震災が日本全体に被害をもたらし、日本全体を危機に陥れたのだというニュアンスを示しています。発生当初は「東北大震災」と呼ばれていたのが、今では専ら東日本大震災と呼ばれています。この呼称の変化が、一体どういう理由で起きたのか。そんな視点を持ってみると、身の回りのありとあらゆる表現が違って見えてくると思います。


AIは人間の言葉から女性差別や人種差別を学び取る - GIGAZINE
http://gigazine.net/news/20170418-ai-learn-bias-from-human/



※参考に、僕がいつも小説を書く際、似た表現を探すのに使っているサイトを載せておきます。どれもそれぞれ、サーチして出てくる言葉に「差」があって面白いですね。

類語辞典シソーラス・対義語 - Weblio辞書
http://hyogen.info/
連想類語辞典  日本語シソーラス
http://renso-ruigo.com/
日本語表現インフォ(小説の言葉集):ピンとくる描写が見つかる辞典
http://thesaurus.weblio.jp/

最近気になっているもの1

・アニメ版『キョロちゃん

 下の方にある記事が全体的に固そうな内容なので、軽い話から。おととしの年末、知り合いから「ガルパンの劇場版観た?」と聞かれたので、そもそもテレビ版から観てないよ、と答えると、「テレビ版は観なくてもいいからとにかく劇場版だけは観に行け、絶対」と猛烈に推されたため、行ってきました。作画がすごいとか色々触れる点はあるんだけれど、それはそれとして、僕個人は「ああ、アニメってこういう風に面白いんだよな」ってこと。もう少し言うなら、登場人物の会話ですね。いわゆる美少女アニメ的なものをほとんど消費していない(意外と思う人もいるかもしれませんがそうなんですよ)僕も、ガルパン劇場版にはある種のしっくりくる感じを覚えていました。

 これと同じような感覚ってじつはアニメ版『けいおん!』でもあったんですよね(やっぱり美少女アニメじゃないか)。なんかこう、アニメってこんな感じの面白さだよな、的な。当時はそれは京都アニメーションの作風ゆえだと思っていました。最近はどうか知りませんが、僕が中高生だったころ(2006~2011年)の京アニは、多分僕が一番アニメを観ていたころ(1990年代後半)のアニメへの懐古的な雰囲気がどこかにありました。『けいおん!』以外でそれが一番わかりやすく示されてるのは多分、涼宮ハルヒのEDの映像じゃないでしょうか。この静止画とテロップの流れる感じにどこか既視感を覚える人も結構いるんじゃないかな。

 

 

 さて、『ガルパン』は京アニの作品ではないわけです。しかしこの二作品、『けいおん!』と『ガルパン』の似た感じは僕の中でけっこう強かったわけで、そしてその理由はわりと普通なところにありました。どっちも、脚本を書いていたのが吉田玲子さんだったんですね。

 いまどきのアニメファン──オタクという表現は避けます──の中で吉田さんの名前は普通に知られているだけに、ここに気づかなかったのはちょっとというか、かなり鈍いよね。まあそれは置いといて、とすると、僕は小さいときに吉田玲子さんが脚本を書いていた作品を観ていて、それが理由でこの二作品に対して懐かしいという感覚を覚えるのだと推測するのが妥当でしょう。で、そんな作品はあったのか。ありました。それがアニメ版『キョロちゃん』です。

 

 

 なぜ今さらこの作品を思い出したのか、というと……いや、思い出したという表現はあまり正確ではないですね。かねてから僕はこの作品のことが気になっていました。何しろAmazonでDVDか何か手に入れようと思っても、あまりにもやばいプレミアがついていてとても手が出せそうにはない。かのカルト作品アニメ版『はれときどきぶた』ですらこれに比べれば安価に思えるほどというとんでもない高値で出品されています。数年前までは実家で、時折CSで放送されているのを見つけては食い入るように観てたわけですが、そのものすごい内容に毎回圧倒され、手に入らないもどかしさに身を震わせながらの視聴でした。

 で、これが最近、突然Amazonビデオに追加されたんですよね。なんか唐突に。僕はAmazon Studentに加入しているので、プライム会員の特典として多数の作品を無料で視放題なんだけど、その視放題ラインナップにこの『キョロちゃん』が追加されました。

 そりゃあもうその時の喜びようったらないです。再生してすぐに流れるOPを見た瞬間、昔初めて目にしたときの「え?何これ?」感が蘇ってきたよね。何しろ映像の内容が本編に一切関係ないため、好きなように作ったんだろうけど、もうものすごい。他に何て言えばいいんだ?

 本編の内容は極めてシュール、強い毒とシュールさが、デフォルメされたキャラの織りなす人間模様に垣間見える一方、それらをまとめあげる、心の原風景を映しだすようなBGM。本当にとんでもない作品です。EDも素晴らしい。苛烈と言っていいほどの映像表現、そして悲しさすらも誘う曲。そういえばこれWhiteberryの歌なんだよね。作詞作曲はJUDY AND MARRYの人だし。

 

 とりあえず、余計な言葉は要らないので、時間のある人は適当なエピソードを観ることをお勧めします。今誰でもパッと観ることのできるのは、とりあえずは下に貼った『パン屋さん戦争』あたりでしょう。僕もこの前通して観たけど、すごく好きだよ。

 

その2

組織も人も、特殊化の果てにあるのは緩やかな死。それだけよ
 
 土曜は朝から名古屋に行って人に会ってきました。それで今日の朝帰って来たんだけど、やっぱり街を歩くのは誰かと一緒にするほうが楽しいですね。以前に梅田から天王寺まで一人で歩いた時、「あ、この時間は誰かと一緒に過ごした方が楽しいだろうな」と思ったことがあったけど、やっぱりそれはそうなんだろう。名古屋という街に行くのは今回が初めてだったんだけど、色々な発見がありました。
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その1

 カンブリア紀のバージェス動物群がどのくらい長いこと生きていたのか僕は知らないし、今ちょっと調べてみた感じでもあんまりよくわからなかったのだが、たぶん何百万年か何千万年かは生きていたのではないだろうか(カンブリア紀は五千万年ちょっと)。これに対して、言語を使う能力を人間が得たのは、それよりは桁がひとつかふたつくらい落ちる。
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自然な正しさと明晰 2

 「言葉」と「光」は対極のものである。どちらも、対象をはっきりさせるものではあるが、「言葉」は「わたし」と「あなた」の境目を失わせ、同じ人間として融合した精神であるように生きさせる。「光」に照らされた時、「わたし」と「あなた」は、違う存在であることが明るみに出る。暗闇の中で語られる言葉を聞いていると、「わたし」が話す言葉と、「あなた」が話す言葉はどちらがどちらなのか区別がつかない。
 言語を話すということは、自然な正しさというものに引かれて泳いでゆき、その中で「(自分が認識している)世界全体」という仮想的な場所でその世界の他人全体と一体化しようとすることである。
 我々は、共有されている言語を使っているために、他人とつながらなければならないという強迫観念を植え付けられている。この過度な社会化は、神経症と同じ原理で生じている、神経症よりも根源的で重篤な病である。それと同時的に、自然な正しさに従わなくてはならないという強迫観念もまた我々を突き動かしている。その症状は一見、他者を愛さなくてはならない、人にとって有益な存在でなければならないという常識的な考えであるかのように思える。しかしそれもまたやはり神経症と同じ原理で生じた病であり、このことによって人間は、恐ろしい嵐の中に呑みこまれて生きることを余儀なくされているのだ。
 言語は、「自然な正しさ」と「過度な社会化」を我々にもたらす。自然な正しさという、イメージ上の他者から与えられた感覚をもって他者と関係していると、自然な正しさから逸脱した他者の出現に常に立ち会うだろうし、そもそも人間は自然な正しさの中にいないということをわかることを余儀なくされる。だが、過度に社会化された人間は、そうした他者とのつながりすらも断ち切ることができない。そこで、過度な社会化によって人間がなす他者への献身は、他者を自然な正しさへと矯正する方へ向かうのである。
 実際にはそれはうまくいかない。しかしそれが不可能であれば、人間は、「自然な正しさ」と「過度な社会化」の間の摩擦の中で生きなければならなくなる。だからこそ、他者を矯正しようとする欲求は強いのである。

自然な正しさと明晰 1

 あることを判断するにあたって、人は大量の判断材料を用いるし、その多くは意識の中ではっきりとした形を取らず、直接には確かめられないことがほとんどである。あるものを買うか、買わないか考えるにあたっても、それが生活のどのような場面で役に立つかについて頭を悩ませているつもりでも、実際は、それを部屋のどこに置くか、置くとすればそれに十分なスペースがあるかとか、経済的な余裕の度合いだとか、自分以外に誰がそれを使うかとか、それはだいたいの他の人も持っている物なのかそれとも誰もそんなものは持っていないであろう珍品であるのかとか、こういう知識は前提条件として頭の中にあるのであって、意識せずともこういった前提は判断に対して強い影響を及ぼす。役に立ちそうなものであっても、それを使っている人を誰も知らない場合のほとんどで、誰でも使っている場合と違って結局買う気になれずその場を立ち去ってしまうという経験は、きっと多くの人に共通のものだろう。
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