<読書記録>官僚階級論 霞が関といかに闘うか

官僚階級論 霞が関(リヴァイアサン)といかに闘うか (モナド新書010)
 

 以下、本文の一部内容を説明したものと、自分で思いついたことをまとめて掲載。

 

民主主義はファシズムを生み出し、官僚階級による専制を許す。官僚の専制は、自分たちが一般意志を体現しているという自意識から生まれる。
マルクスは、人間の共同体が生産部門間のコントロールを行うと述べたが、エンゲルスは人間の共同体、にあたる部分を、共同体の生み出した知性、にすげかえて主張した。この結果、共産主義国家が官僚に支配されるという図式が生まれた。
資本と国家、という本来異質なものを結びつけるのがネーション(民族)という共同体意識である。重商主義において、競争的に資本を運動することに国家がスポンサーとなったことが官僚の膨張をもたらした。

悟性から必然的に発展するものとして理性があるわけではない。理性とは、人間が外部から得るものであり、様々な意味での受動的・能動的教育によって、経験科学から自然の正しさとして得た正しさに沿って作られるものである。つまり、悟性の悟性の発展する形として、ただ一つの予定運命図(将来図)として理性があるわけではない。もちろん、ある程度はいわゆる理性の形と同じものが予定運命図にはあるのだろう。児童心理学や発達心理学は、このような理性の一部の原初的な形が乳幼児にもあるということを示している。しかし、理性によって思い描かれる標準的な内容は、進化の先に位置付けることは難しい。よって、動物種としてのヒトの性質の中に人間の理性がもともと備わっているとは考えるべきではない。実際に人間の成長した形が必ずしも近現代の理性と同じものとは決めかねるということは、未開社会の思考の形や、文化人類学的比較を行うことで実証されうるだろう。経験科学を含むさまざまな経験則と同じ形をした近現代型の理性を、人間は持つべくして持つのであると無批判に思い込むことは、神によって人間の進化の方向は決められたのだと断定するインテリジェント・デザイン論を信じるのと同じようなものである。

国家が公のものでなく、公と対立し時には公に侵入するものであるとするなら、都道府県や市町村といった自治体などもまた公とは言えない。したがって、「公立」小学校などという呼称は、そういった行政が公であるという誤った認識を秘かに植え付ける働きをしているといえる。

<読書記録>イエスの生涯

 

イエスの生涯 (新潮文庫)

イエスの生涯 (新潮文庫)

 

  先行する聖書学の研究などを踏まえて、著者である遠藤周作が、特に事実関係の整理とイエス及びその弟子の内面について、聖書の言葉に対する自分の解釈を述べている本。イエスはいわゆる奇蹟などによって物理的に人を助けるのではなく、愛がないという最大の不幸から人々を救おうとしたという内容が何度も語られています。
 個人的に印象に残った内容はおよそ以下の通りです。
ヘロデ王をはじめとして、ローマから派遣されていた政治家たちはヨハネを処刑したが、ユダヤ教徒たちにどう溜飲を下げさせて彼らを治めるかについての加減に苦慮していた。
・弟子やユダヤの民たちは、イエスユダヤ人の王となってローマの支配に反旗を翻すことを望んでいて、そうした即物的な願望は、愛を至上とするイエスの心と乖離していて、イエスはこの点に苦しんでいた。
・ベタニヤの村でイエスに油を注いだマリア(一応言うとイエスの母であるマリアとは別人)に対してイスカリオテのユダが放った言葉。高い油を買うお金を貧者に施したほうがよかった、という旨の発言だが、これはまさに上に書いた、現実的な救いをイエスに求める弟子と民の心を表している。そしてこのすれ違いは、のちに裏切り者となるユダの未来を暗示している。しかし多くの弟子がイエスを離れてもユダはイエスの後に付き従っていたのであり、ユダは単純な悪人ではなく、現実的な救世主像を体現しないイエスに対する苦しい葛藤を抱えた人間であったと遠藤は述べている。

 

追記:更新するのは久々になりましたが、この一月ほどもずっと三日に一冊くらいは本を読んでいました。ただまあ、読んですぐに内容を飲み下せる本が少なかったため記事で扱うのは難しかったという感じです。再読してなにか書きたいことなどあればまた記事にします。

<読書記録>〈1分子〉生物学―生命システムの新しい理解

 

〈1分子〉生物学―生命システムの新しい理解

〈1分子〉生物学―生命システムの新しい理解

 

 なにやらものすごい話が書かれた本です。出てくる実験技術の数々には目を見はるばかりですが、この本が出たのはなんと2004年。もう15年も前のことなのです。光ピンセットの話なんかは以前に聞いたことはありますが、いざその説明を読むととんでもないことをしているなと改めて思ってしまいます。やや雑な箇条書きとなりますが、内容を紹介していきます。

・光ピンセットとは、プラスチックでできた0.2μmのビーズを化学的に修飾することで目的の分子にくっつけ、そのビーズを光で動かすことで目的の分子も同時に動かせるというものです。ではどうやってビーズを動かすのかというと、四本のレーザーを一点に集中させ、その焦点でビーズを補足し、そこから焦点をずらすと、光が屈折するときに生じる(運動量が変化することによる)微小な力でビーズを焦点の方向に誘導できるのだそうです。本文で紹介されている例では、ビーズを補足してから焦点を1nmずらすと6fNの力が生じるそうです(fはおそらくフェムト。10のマイナス15乗を意味する。なおミリは10のマイナス3乗)。
・微小管の上を走るキネシン分子のうち、KIF2Cは微小管を脱重合して分解する。原理は、微小管との結合部位の構造上固く結合できないため、ブラウン運動によって前進し、微小管の両端のカールしたところからチューブリン分子を外していく。
単細胞生物であるアメーバが前進していく時、cAMPが受容体に結合してから解離するまでの時間が細胞前部よりも後部のほうが三倍長く、GTPとの相互作用が関連していると考えられる。
・Rasなどのタンパク質は構造の変化を記憶する、すなわち同じような構造を一時的に保持する。この結果、ある酵素が基質と結合している時間は、いったん長く結合すると次も長く結合し、逆に短く結合すると次も短く結合する。これをヒステリシスと呼び、酵素の記憶は基質と十回ほど結合したらなくなる。
・細胞の中で、特定の物質同士が出会うにあたっては、標的を認識して特定の方向に動くというよりもブラウン運動でランダムに動き回った結果ぶつかるという原理のほうが現実的である。
・べん毛モーターは水素イオンが一個通過するたびにタンパク質の構造が変わり回転する。濃度勾配を利用するので、pHを変化させて人為的に制御できる。アルカリ性細菌の仲間は、水素イオンでなくナトリウムイオンの濃度勾配を利用する。
・べん毛は繊維部だけでなく基部体という複合的な構造を持ち、多数種のタンパク質が組み合わさってできている。組み上がるまでには、システムの出来上がる具合をモニターしながらタンパク質分子の生産過程(DNA、制御因子などのレベルで)が制御されている。べん毛は、フラジェリン分子が重合してできた11本の素線維が束になってできているが、素線維でもフラジェリン分子同士の距離が長いものと小さいものがあり、これらが混在することでべん毛に曲率が生まれる。長いものと小さいものの周期長は、それぞれ52.7Åと51.9Åで、0.8Åしか違わない。
・べん毛は、細菌が前進するときは素線維が左巻きらせんを作っており、これが反時計回りに回転する。後退するときは、CheYというシグナル伝達を行うタンパク質がリン酸化されてモーターのスイッチ複合体に結合することによるによって、モーターが逆回転し、素線維がほぐれてバラバラになったうえ右巻きらせんを作る。
・一分子モーターは、完全にランダムに動く状態、すなわち前進も後退も問う確率で行う状態と、前進する確率のほうが高い状態を交互に取ることで、総計として前進することができる。前進する確率が高いときは、モーターは微小管に固く結合している。

 こうして書き出すとなかなかものすごいことが書いてあります。ここまで一分子の構造やふるまいについて着目して調べる例をそこまで僕は知らなかったし、どれも物理的な特徴があってはたらきを実現しているわけです。
 一分子が持つ物理的特徴は僕が大学で勉強している内容とはかかわりがあるようで実はほとんど含まれていないため、新鮮に感じられたし、そしてなにより原理が具体的に解明されていてとても納得的に読むことができ、とても面白かったです。この立場での研究がどんなふうに発展していっているのか、また勉強してみたいなあと素直に思いました。

 

追記:

サルモネラ菌を人間と同じ大きさに拡大すると、べん毛の太さは2cmほどになり、それに対して水分子の大きさは0.3mmほどになるそうです。このスケールだと、水を流体として扱うこともできなくなるようで、しかも水分子には極性があるため、一般的な流体力学とは全く異なった力学を導入する必要があるようです。このあたり、世界観が一気に変わる感じがして、すごいと思ってしまいます。

<読書記録>平安朝の言葉と文体

 この本、ものすごい値段でした。いくらだったか? なんと驚愕の14,000円+税です。学術書の中にはなかなかすごい値段をするものもありますが、これはその中でもかなりの部類に入ると思います。でも、それだけお金を払ったのに見合うものを読んで得られたと思いました。まだ120ページほどしか読んでいませんが、すでにけっこう面白い箇所はあったのでここで一区切りして内容を紹介したいと思います。
 まずぐっと興味を引き付けられたのは竹取物語における言葉遣いについての箇所です。有名な、冒頭の「いまは昔」の部分では、「けり」や「なむ~ける」のような表現がありますが、これは口語りの話し方を反映したものだそうです。竹取物語には、原作となる『竹取説話』という口伝えされた物語があって、それに作者がたくさんの肉付けを行って書かれたものだという説が有力だそうです。本文に出てくる量の多い会話文は、口伝えするには難しいものだから、これは特に作者が足したものであると考えられるそうです。
 一方、竹取物語は小説作品としては最初期のものであるがゆえに、スタイルがしっかり確立していないことを示す表現も多かった。その例として、最初のほうでは地の文に「あるいは」「しかるに」「いはむや」「ただし」「たがひに」「すみやかに」といった漢文訓読に用いる語が多用されているのに対し、先に進むにつれ漢文訓読的な言葉は減っていき、最初は「なにをもちて」のような漢文訓読語が翁のセリフに出てきたのに、後半になると「さりとも」など当時の日常語を用いるようになっていったようです。
 竹取物語の未熟なところはほかにもあって、男性でなく女性の会話文の中に漢文訓読語のような非日常語がよく出てくるというだけでなく、荒々しい言葉の構成する割合が多いという点もあります。「かなぐり(=つかんで)」「さが(=そいつの)」「奴」「殺す」などといった物騒な言葉を、おしとやかな人物として描かれるべきかぐや姫だけでなく身分の高い貴族も平然と使っています。語彙の不適切さというだけでなく、竹取物語は登場人物ごとに話すことの言葉遣いが区別されておらず、描き分けができていないのです。
 さて、この点で大きく進歩しているのが『落窪物語』です。主人公の姫君は言葉少なに、それも言い切らない形で話すので会話文の量が少ない。その言葉遣いも和歌からの引用などによって雅さを表現しています。一方で姫君をいじめる北の方は、「すやつ(=そいつ)」「さくじり(=こざかしいやつ)」など、乱暴な言葉を使うだけでなく、「あなかしまし」「いで、あな聞きにく」など都合の悪い他人の発言を封じ込めるセリフが多いことから、わがままで思いやりにかける人物として描かれています。力強い登場人物として描かれるのは北の方以外に姫君を助ける次女の阿漕もいますが、こちらは姫君が困ったときに的確な助言や指示を出すことが多いための命令形が目立つ形となっています。そして阿漕は、姫君を疎む北の方の前であっても、姫君の行為に対して「まゐる」「おはします」「たまふ」のように敬語を用いて表現します。その阿漕が、姫君が寝るのを「御ともごもりたり」と言ったのに対して、北の方は「なぞの御とのごもりぞ。ものいひ知らずなありそ」と非難の言葉を浴びせます。このことから、落窪物語の作者が、感覚的にだけではなくかなりの程度で意識的に、登場人物ごとの言葉遣いの運用をしていたということがわかります。
 我々現代人は、古文というとまず学校で文法やら単語やらを学びながら読むわけですし、敬語表現の使い分けは必ず付随するものとして古文に接します。しかし、現代のわれわれが普通に現代語で話す際、助詞や多義語をしっかり使い分けるのにあまり特別な意識を持たないことを踏まえると、『落窪物語』の作者が執筆に使った語彙や文法は特別な意識をもってして分析されることは、当時の人にとってはあまり当たり前ではなかったのではないでしょうか。つまり、少なくとも我々ほどには当時の人たちは古文の言葉を分析的に捉えてはいなかったはずなのです。それを踏まえると、この『落窪物語』の、語彙や言葉遣いの使い分けによって登場人物を描き分ける技術はとても水準の高い文学的営為だったと言えるのではないでしょうか。
 さて、そのあとに『源氏物語』が来るわけですが、これはもう本当にものすごくて、擬人法を積極的に用いているところとか、地の文で和歌の言い回しを違和感なく取り入れているところとか、登場人物ごとの語彙の使い分けとか、超人的な形で実現されている特徴がいくつもあるのですが、ちょっとそれはまた後日ということにしたいと思います。
 ところで驚いたのが、『伊勢物語』の版が変わるごとに係り結びの量や形がどのように変化していったかひたすら実例を挙げて説明している箇所がけっこう長かったことです。文学研究って大変だなあと思ったんですが、こういうの機械学習でなんとか省力化できないんでしょうか。pythonとかそういうの強そうですが……

<読書記録>ABC予想入門

 

ABC予想入門 (PHPサイエンス・ワールド新書)

ABC予想入門 (PHPサイエンス・ワールド新書)

 

  ええと……大変難解な本でした。タイトルに「入門」とあるので初学者でも大卒程度の学力があればそれなりに理解しながら読んでいける内容を想定していたのですが、実際はそうではなく、数学の知識がそれなりにないと理解できないような速度で話が展開していました。
 あと速さの問題に限らず大変だったのは、数学的な論理展開に慣れていなければ読み下せないような内容が多かったことです。たぶんていねいに書いている箇所ではあるんだろうな~とか思いつつも引っかかるという場面がとても多かった。最近線形代数を独学していたからまあ知識面でもなんとかそれが補助になって無理やり読めたぞ、という感じでしたが……ああでも途中からほとんどまともに読んでないところもあります。
 とはいっても、読んで何も成果がなかったというわけではなく、しっかり理解できた箇所もありました。特に面白かったのが、「空間を群で割る」というちょっと謎の事象についてですね。端的に、本文の趣旨を本質的に損ねないよう(ただしいくらか便宜上の言い換えをしながら)説明してみます。
 二次元平面で、整数ベクトル全体の集合をZ^2とし、x座標もy座標も0以上1未満の正方形領域をIとします(Z^2の2は2次元の2で、平面を意味します)。Iの点を、Z^2のどれかで移すことで、座標平面全体の点を表すことができます。つまり座標平面全体をZ^2によって簡略化すると、Iという領域にまとめることができます。座標平面全体をR^2と表せば、この簡略化は「R^2をZ^2で割るとIになった」ということができます。
 座標平面の点全てに、Iの内側にある何かしらの点が一つだけ対応します。よって、例えば(0.5,0)という位置にある点が、y軸の正方向にひたすらまっすぐ移動し続けるとすると、その移動中の場所はすべてIの内側の点で対応させられます。(0.5,3.9)という点は、I内の点(0.5,0.9)に対応しているというわけですね。だから、この移動を永遠にさせると、I内を何回も下から上に向かって動くループを繰り返す動きに対応させられます。イメージしにくいなら、ポケモンなんかのゲームのメニュー画面で、カーソルを下から上に移動させ続けてもループして永遠に続くのを考えてみてください。
 このループを、円周をぐるぐる回るのと同一視することができます。つまり子の正方形の、直線y=0とy=1を糊付けするようにつなぎ合わせることで、先ほどのループは円環する運動になります。このループは、y座標だけでなくx座標にも適応できるので、Iという正方形内に二つのループができることになります。
 その結果、この正方形をトーラスというドーナツ型の図形と同一視することができます。ドーナツ型は断面が円なので、この円に関してループがあるため、断面を一つのループととることができます。そしてドーナツは輪っかの形をしているから、その輪っかがもう一つのループということです。
 以上、座標平面を、xy両成分が整数のベクトルの集合で割った結果トーラス(ドーナツ型)になるという説明でした……が、この本はここまでの流れをおよそ650字(文庫本で一ページ半もないくらいの量)と、図一つだけで説明しています。まあ上の僕の説明も726文字だからそこまで大差ないのですが、僕の説明は数学的に厳密なものではない一方、この本では数学的に正しい記述方法を取っているので、初学者にはちょっときつい本でした。
 それにしても数論っていうのは本当にすごいことをしてるなあと思いました。整数に関する命題を証明するのに、ここまで一般的な整数のイメージと離れた(?)概念を大量に動員するんだなあとちょっと驚きました。数学ってすごいですね。

<読書記録>老北京の胡同: 開発と喪失、ささやかな抵抗の記録

 

老北京の胡同: 開発と喪失、ささやかな抵抗の記録

 

  胡同(ふーとん)と呼ばれる、数百年ほど前から現代の北京に伝わる下町のようなロケーションの情景を記録し描いた本。素直に面白かった本ですが、実は数十年前の中国の風景を描いた本を読むのはこれが三冊目です。一冊目は香港にかつて存在した巨大な集合住宅である九龍城塞の写真集、『九龍城探訪 魔窟で暮らす人々 - City of Darkness』。二冊目はこれまた胡同にまつわる著者の体験をつづった『胡同の記憶――北京夢華録』でした。
 下町のようなと言いましたが、胡同が完全に日本の下町、例えば大田区の大森とか大阪の天神橋筋商店街とかと同じなのかと言えば全くそんなことはなく、その独特の情緒を味わいたくてこの本を読んだ次第です。
 では胡同がどんな場所なのかというとこれが結構説明しづらいのですが、本から読み取った感じでは、昔からある建物が立ち並んでいてそこに入居する商店や住居の境目が不明瞭という風なのですが、いかんせん写真集ではないせいで、正確にはよくわからないんですよね。僕は中国という国の街並みがどんな感じなのかほとんど持ち前の知識がないので、こんな感じなのかなあと適当に想像しながら読んでいたのですが、実物から離れたイメージをしていたかもしれない。
 それでも、語られるエピソードの数々はなかなかに味わい深く、読んでよかったと思えた箇所は結構ありました。例えば、元の時代では色目人(中央・西アジア出身の人々)以外ではほとんど食べられなかった羊肉は高級品の位置づけがされていると述べられた部分のこのP164~165の箇所。

 店にはほぼ一頭丸ごとに近い羊の肉の塊がいくつもぶら下がっていたのだ(略)羊本来の形を残している肉塊から肉を切りとる、というのは視覚的には抵抗がある。だがその一方で、必要な場所を必要なだけ切る、という売り方は、羊を尊重しているようにも感じた。不思議と、『買う方もお肉をいただいています』という気持ちになるのだ。

  なんとも情緒あふれる箇所です。羊の肉体を一見粗雑に扱っているようで、羊の命への畏敬を売り手と買い手が共有している。命の尊厳の前で人はみな同じ立場にあるのだということを暗に示されたような気がしてドキッとする場面です。
 他にも、北京の人たちがコオロギを蛐蛐児、キリギリスを蟈蟈児と、子供や女性の名前のように親しみを込めて同じ音を重ねた名で呼ぶところになんかまさに「風土」を感じられてよかったです。コオロギ相撲は胡同の人にとって身近な娯楽でもあり時には生活をかけた賭博の場ですらあったそうです。
 ところでこの本のほとんどは、都市開発によって胡同が破壊されていくことへの不当さを訴える内容で占められています。僕自身にとって、都市の姿というのは非常に重要なテーマなので、いろいろと思うところがありました。
 それはさておき、ありていに言ってしまう感じですが異国情緒を感じられたという点だけでも、いい読書体験ができたと思います。数百年もの間胡同に伝わってきた風習や説話の数々は壮大なドラマでありながらも、人々の生活の細かいところにまで脈々と受け継がれているのだとよく描いた本だと思いました。

今後の読書記録について

 うーん……この前の記事で、本を読み終えるまでにはその内容をメモした記事を書き、読み終えた後にはそれとは別に総括の記事を書くと見得を切ってしまいましたが、実際問題これを実行するのはかなり難しいですね。
 僕は現在けっこう多忙な状態にあって、具体的には何に時間を費やしているのかというと、大学の授業・それとは違う分野の独学・執筆・読書・バイト・そしてそれに研究室での作業という、かなり多方面に時間を割いているという状況にあります。独学している内容は数学で、今後は物理も勉強したいし、しかも僕は高校で物理を選択していないためかなり先行きが大変そうな状態なんですね。
 そういう中で、本を読んでその記録に時間を使うというのには結構な工夫がいるわけで、しかし上述したようにメモと総括の二種類を書くと内容が明らかにダブる。できるだけ時間は使わないようにしたいのにこれはきついです。というわけで、もう総括の記事は書かずに、読んだ内容と思ったことをつらつらとその時その時で半ば垂れ流す形で書いていこうと思います。これは読書記録というより読書日記ですね。あと星による評価もするとか言ってましたが加減が難しそうだしやめます。

 さて、『よみがえる古代思想』の内容で前回触れていなかった残りの部分ですが、多忙な生活を送っているうちにどんなことを書いてあったかけっこう忘れてしまった感があります。第五章の古代ローマに関する記述はまた今度読み返そうと思いますが、それはそれとして、印象に残ったのはヘレニズム期のギリシアで活躍したエピクロス派の主張です。
 エピクロスというと楽天主義的なイメージが強いですが、そうではなく、過剰な意図によるはたらきかけで自然なありかたに干渉するべきではないという根幹のもとに、徒な悲観をすべきではないという主張をしていたんですね。ひたすら快楽を追い求めることを唱えたキュレネ派とは違って、ある種なすがままの在り方を推奨したということでしょう。
 こういうものの考え方は老荘思想のそれに似ているような気もしますし、またもともとソクラテス以前のギリシアにあったという、全体の調和を崩すべきでないという風潮もまたどこか東洋的に思えます。西洋というとキリスト教の浸透して以降の一神教のイメージがありますが、古代ギリシア多神教であり、だからこそ全体のバランスを崩す、程度を超えたことをしてはいけないとの規範が民の中に内面化されていたようです。それと同じように、ノモスと呼ばれた決まりに従うことはギリシア人にとって半ばアプリオリな形で受け入れられていたらしく、ノモスの通りに生きることはギリシアの人にとって何の抵抗もなく、まさにノモスが内面化されていたようです。
 ただ、この「内面化」という表現は僕独自のものですが、ソクラテスギリシアの人々に対して魂をないがしろにしないように生きるべきだと主張したわけで、ソクラテス以前の人の内面が完全にノモスだったというのならこのような主張もなさそうだし、やはり反ノモス的な衝動はあったのかなと思います(例えばギリシア神話に登場するディオニュソスなんかはかなりそんな感じがします)。
 とはいえ、この本はあくまでギリシア思想の要約をしている本なので、この少ない記述量からあまり過度な憶測をするべきでもないでしょうから、またそのうちこの辺の題材を扱った本を読んだらこの話題はまたその時にということで。あと書き漏らしましたがローマでは元々は哲学は疎まれてた風潮があったみたいな話は知りませんでした。