なぜ小説を書くことはしんどいのか

 小説家デビューを志望していながら、ここ数年ほど僕は小説を書くことに対して億劫な姿勢を取り続けていました。理由は一点、しんどいからです。単にキーボードを叩くだけならもちろんもっと楽ではあるのでしょうが、小説を書くしんどさは、他の頭を使う作業とはまた別の大変さがあるようです。
 おそらくこれは僕の小説の書き方によるところが多いでしょう。つまり、どういうことを考えて文章を作り出しているのかという過程や経路の問題ではないでしょうか。実際、書くことが楽しくて楽しくてやめられないという人もたくさんいるわけで、プロの作家にもそういう人は見受けられるようです。
 しかし僕はそうではない。書いている間はもう本当にくたくたになるし、胃や心臓が、痛みに耐えてもだえ苦しんでいるかのようにひくひく動いたり(本当にそのような動きをします)、背中からお腹に向けて異様に鋭い痛みが走ったりします。普通に机に向かって勉強したり、あるいは小説でない文章を書いたりしている時はこんなことは起こりません。僕にとって小説を書くという作業が際立って辛いものなのです。
 今回は、いつもとは違って具体性を欠く話の進め方になります。その理由は、具体的なエピソードに触れながら理屈を説明するのは思いのほか骨が折れるからです。いつもならその元気があるのですが、今回はひたすら僕がしんどいということを訴え続ける文章なのであって、つまりしんどいから泣き言をつらつら書くようなところに具体例を出してくるような元気はないということです。だからやや説得性や被共感性に欠けた文章になるかもしれませんが、ご理解ください。本当に小説を書くこと、書こうとすることはしんどい。
 では、なぜ僕にとって小説を書くということはそんなにしんどいことなのか。繰り返すようですが、これは僕がどうやって小説を構想しているかというところに原因があるようです。
 言うまでもなく、何かをしようとか、何かを作ろうとかした時、仮に目的や目標が同じものであったとしても、その際に起こる思考やその他の精神のはたらきは人によって異なります。まして小説なんて、最終的に書かれるものは人によってだいぶ異なるわけですから、過程で起こる精神的現象は本当に人によって千差万別でしょう。自分が過去に体験したことを思い出したり、あるいは自分がこうありたいという理想を描いたり、主人公以外のキャラを考えるにしても自分の知り合いを元にしたりあるいは自分を元にしたり、実際に文章を書く際も肯定的な感情を以って明るい調子で進めるのか、長きにわたって抱えていた屈託を表現するつもりで暗い感情に浸って書くのか……
 だいぶ単純化して書きましたが、こうして見るだけでも小説を書くときの内面の動きはだいぶ人によって異なるであろうとわかります。実際には、もっとたくさんの種類のことが、複合的に入り混じって働いているのでバリエーションもだいぶ多くなる。
 さて、では僕はどのようなことを考えて小説を書いているのか。僕は主に、内省を小説を書く上での基本としています。
 僕は自分のもっとも得意とすることの一つは内省だと捉えています。改めて内省とはどういう行為なのか説明すると、自分の過去や現在の、思考や感情といった内面、あるいは言動などを振り返って分析したり検討したりすることです。あの時ああいうことを思ったのはこのような感情によってではないだろうかとか、自分がいまこのような感情を持っているが実はそれは別のものではないのかとか、そういう捉えなおし方です。いわゆる精神分析みたいな意味合いが、僕にとっての内省では強い。もちろん、内省とは自分の中だけで完結することではなく、他人と自分の言動や思考・感情を比較して、自分の内面にある普通でない──正確に言うなら非標準的な──心理を見つけ出すことだって重要です。というのも、他の人と違うことをわざわざするのだから、そこには何か自分だけの特殊な原因・理由があるのだろうと考えられるからです。
 ここにおいて僕が常に意識しているのは、精神の持つ防衛機能ですね。いわゆる検閲という言葉で指されることのあるこの機能はどういうものかというと、精神は、自分にとって都合の悪いことを意識にのぼらせないというものです。
 実際に突き詰めてやってみるとわかりますが、自分にとって都合のいいような認識に流れようとするこの検閲というか誘導の機能は思いのほか強力で、なんとか頑張って抵抗しないと、自分の内面にある情念の因果関係を掘り出すことはできません。それらを明るみにするための手がかり足がかりとなるのが、人の心、精神のことについて研究した結果得られている知見の数々です。精神医学、心理学、神経科学文化人類学、哲学……まあ僕は精神医学以外については本当にかじっていると言えるかすら微妙な程度の知識しかないのですが、それでも有るのとないのとでは大違いです。
 無意識を含めた──と言うよりは、主に無意識の──内面のはたらきが、どうしてそうなったのかという因果関係の「因」が次々に浮かび上がってくる。また、「果」がどのようにもたらされたのかが明らかになってくる。このようなことを繰り返して、自分の内面を可能な限り理解しようとしていくわけです。もちろん、そこには単純に「精神の中で完結した」因果関係だけがあるわけではない。視覚の盲点などが象徴するように、神経の構造的な問題から、精神の現象にはところどころ直接的な線では結べない事態が頻繁に起こっています。だから精神分析的な観点だけでは了解できない、承服しかねることもたくさんある。そこは心理学や神経科学の出番ですね(まあ僕はおおざっぱな人間なのでこの辺のことを認知科学という名目で包括して理解しているきらいがあります。もっとそれぞれの分野の専門性へと特化した理解をするべきところなのですが)。
 さて、このような作業のしんどさは、まず自分の考えることや思うことを疑うというところにあります。さっき述べたとおり、人間の精神には検閲の機能があります。そしてそれは基本的に、精神の安寧を保つため、嫌なことを極力考えないようにするためです。
 考えるだけでも耐えられないことはたくさんあります。例えば、自分がものすごく嫌っている誰かが、自分の行動を支配しているのだとか、あるいは自分の思考のパターンがその嫌いな誰かに一致しているとか、まあいくらでもあるのですが、そのような「耐えられない」ことを実際に考えてみようとすると本当にとんでもなく最悪な気持ちになります。だから、普段でも、そのようなことを思いつこうとしてしまった瞬間、意識の機能はそれを扱うのを瞬間的に回避してしまいます。この、「あ、なんか嫌!」という回避能力はすさまじいものがあるのですが、ある考えが意識に上るよりも前に脳はその考えを用意しているのだと近年実験で確かめられたのは有名な話です(リンク参照)。つまり、ある「耐えられないこと」を脳のどこかの部分が用意してしまったら、それは意識にのぼることなく、意識は回避するのだというわけですね。この実験は、無意識の検閲のはたらきを、部分的に証明したということになります。
 しかし、検閲によって棄却された考えをなんとか発見するのが僕にとっての内省であって、だから辛いというのがまず一つ。そして、検閲はほとんど精神の安寧のために行われているのだから、発見がひとつあるたびに、「ああ、自分は今まで自分にとって都合の良いことばかり考えていて、こんな大事なことを無視していたんだな……」といちいち自己嫌悪せざるをえなくなってしまうのがもっと辛い。そしてそういう辛さに耐えながらさらに内面をえぐり出すのはもっともっと辛い。ひどい気分になるとわかっていながらも、それをさらに続けるというのはどうやったって苦行です。慣れることは今後もないでしょう。
 これは小説の本文を書いているときだって同じです。書いていて、まず思いつく言葉は基本的に、自分にとって都合のいい、適当に書いてしまうことが簡単な言葉遣いです。言葉遣いによって指し示す意味がまったく異なるのは以前の記事(こちら)で紹介していますが、自然と出てくる言葉のいちいちをしっかりと検討すると、この差は顕著に出てきます。つまり、簡単に思いついてしまう、さらっと出てくる言葉は、何かを隠蔽していることが多く、それはだいたい、「もっと深い内容を扱うために必要な労力」と、「自分の不都合な内面」の二つです。放っておけば、易きに流れて簡単に書けてしまう方向に書いてしまうし、自分にとって直視したくない事態はそう簡単に言葉にはならない。精神のはたらきは、不快さを排除した滑らかな方向に行くのがデフォルトなのです。それにブレーキをかけてやるわけですが、これがまた辛い。
 さて、実際に書いている時の労苦はともかく、小説の構想において僕は内省を主な手段としているということですが、では内省はどのように役に立つのか?
 隠された心理の奥底を探っていると、原因と結果として意味づけ整理できるものがほとんどなのですが、そういったものが次々に判明してくる中で、稀に、一体これは何なのかというものが浮かび上がってくることがあります。それはある情景のイメージだったり、ある想像上の人物の性格だったり、あるいは何かしらの命題だったりする。そういった、何なのかよくわからないものを小説に配置すると、理由は不明ですが非常に生き生きとした小説の姿が出来上がっていきます。
 前回、今年の三月に書き上げた作品で言うなら、「思い出すという行為の時間的なずれや重複といった非単純性を自覚したときに人は自分が自分であるということを自覚する」という命題は、内省して得た様々な内容の中で、際立って意味不明なものでした。これがどういうことなのか、つまり「思い出すという行為の時間的なずれや重複」がいったいどういうものなのか僕にはそうはっきりとは分からなかったし、なぜそれが自分自身についての自覚をもたらすのかはまったく不明だったんです。
 この他にも、たくさんのイメージを得て、紆余曲折の骨折りの果てに、僕は何とか小説を一本書き上げたわけですが、なぜそんな辛い思いをしてまで小説を書き、そしてそれを人に見せるのかという問いはおそらくあるでしょう。
 その答えは二つです。と言っても、二つの意味内容はほとんど同じだと思う人もいるかもしれません。一つは、やはり上に書いたとおり、人は自分にとって都合の悪いことは考えないという現実があるため、誰かが嫌な思いをしてでも不都合な真実を暴きだすべきだという使命感じみた蛮勇があるからです。しかし、暴きだすとは言ってもしょせん僕が勝手に考えたことなのであって、厳密な検討や自然科学における実証のような確度を得るための手続きは経ていません。だから、正確と誠実を期そうとしても限界があります。つまり、僕が勝手に考えることなんて、絶対的な正しさとは程遠い。
 もう一つの理由は、絶対性とは真逆のものです。小説は想像力を提供するものだからです。
 想像力という語彙は、末尾に「力」がついているため、腕力とか握力とかいった、数直線的な単一の物差しの上にあるかのように聞こえてしまいがちですが、そうではありません。想像力には、たくさんの方向性があります。例えば、物理学者が物体の動きを思い描く想像力と、動物行動学者が動物の振る舞いからその原因を想像する想像力とでは異なるものだとわかってもらえるかと思います。つまり、僕には僕の想像力があるのであり、そして、嫌だから意識によって避けられるという原理のためになかなか想像されないものについては頑張って作家が描き出すことでその種の想像力を提供するべきだという、また別の使命感じみた蛮勇があるからです。名前を聞くだけでも嫌だというくらい嫌いな他人の考えていることを推し量ったり、思い描くだけでも苦痛なくらい悲惨な事態に備えたりすることは、実際に必要であったりするし、それができるかできないかの差は非常に大きいでしょう。
 あるものごとを考えの対象にするのが嫌だ、という原理がはたらいた結果、不都合な現実を否定する現象を精神医学ではディナイアル<否認>と呼びます。そしてそのディナイアルのために、たくさんの人災が世で起こっているというのが、精神医学者の大方の見解であるようです。その例としては、戦争、恐慌、公害、その他枚挙にいとまがないと言っても過言ではありません。
 想像力のすべてを、この場合はこの想像力が有効だという風に絶対性のもとで分類して重要性を付与することははっきり言って無理です。現実には何が起きるかわからないし、人間は何を思うかわからないからです。だから、できる限りさまざまな想像力が世に示されるべきである、それこそが文学、哲学、人文、文化といったものの使命ではないでしょうか。

 

戦争する脳―破局への病理 (平凡社新書)

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哲学はなぜ必要なのか(前)

 ここ一年くらい、色々な場所で色々な人と話す機会があったわけですが、その中で痛感するのは、やはり自分には知識とか教養とかいったものが足りていないということです。そりゃあ本はそれなりに読むけども、だいたい小説家志望者なら僕くらいの量は当たり前に読むし、もっと読んでいる人のほうがむしろ多いのではないでしょうか。読書に限らず、例えば映画だって僕はほとんど観ないわけで、音楽は散発的に色々なジャンルを聴いてはいるもののジャズとクラシックはまったく聴きません。
 そういう状態に危機感をもって、さっき図書館で十五冊ほど本を借りてきましたが、結局そのうち五冊は精神科医の笠原嘉さんの本で、また五冊は別の人が書いた精神医学の本というえらい偏り方をしています。どうも近頃、何かと立て込んでいるため頭を使って読まないといけない本を読む気力がないので、慣れたジャンルのものなら楽に読めるかなとこのラインナップになりました。
 ところで、この記事のテーマは「哲学がなぜ必要なのか」ですが、僕のように教養のない人間が語るにはあまりに大層な話です。ある程度哲学をかじった人ならわかるでしょうが、それまでなされてきた哲学の流れをわかっていなければ、この手の話題は拠り所がないせいかあまり密度のない議論をしてしまいがちです。つまり、哲学の歴史を踏まえなければ、個人の哲学は、どこにでもありそうないい加減な人生論を述べただけに終わってしまいかねないということですね。
 まあ、一切拠り所を持たずに話すわけでもないので、まったく意味のない議論をするつもりでもないのですが、哲学に明るい人からはどう見えるのかと考えると少し怖いところです。
 それでも僕が哲学について論じようとする理由──すなわち、自分が哲学をすることに意味があると思う理由、そして自分が哲学をする必要があると思う理由──は、後にも述べますが、珍しい発想をすることは非常に価値があるというところにあったりします(あくまで理由の一つであって、哲学が必要だとする理由は他にもあります)。
「すべての人は生まれながらに一定の権利を持つ」「人間は他の動物と同じ祖先から生じたものである」「自分が考えているということだけは、間違いなく事実である」「自分たちが住む自然の生き物を、大切にしなければならない」……このような発想は、すべてが完全に哲学のものだというわけではありませんが、しかしこのような発想はある特定の人によって発表されてから、それ以降を生きる人たちに対して非常に強い影響力を持ちました。その結果、以降を生きる人たちの、生活の仕方、何が正しくて何が間違っているかという判断、生きる上で何をすべきで何をすべきでないのかという判断は、大きく変化してしまったわけです。その理由は、きっとこれらの発想にそれなりの説得力があったからでしょう。
 しかし、珍しい発想をするだけでいいのなら、哲学でなされるような冗長で迂遠な議論や検討をする必要などないかにも思えます。実際、適当な哲学書を手に取って開いてみると、同じ話題についてやたらねばっこく検討するのにページを割いていることはそう珍しくありません。そして、そのねばっこい検討によって内容が遅滞しているとの印象を拭いきれない人もいるでしょう。しかし、それは必要なことなのです。

 僕がよく出す例に、「急がば回れ」と「善は急げ」のことわざがあります。この二つはまったく逆のことを勧めているため、ある一点で同時に併用するということは不可能だし、この二つを前に結局我々は、「回る」べきなのか「急ぐ」べきなのかわからないのです。その理由は二つあり、一つは、なぜそのような主張がなされるのか、その主張が成り立つ理由は何なのかがわからないこと、もう一つは、先の一つが不明なせいで、どのような場合にこれが成り立つのかが不明なことです。
 すべての場合に成り立つ一般論は、おそらくほぼないと思われます。我々が間違いなく正しいと思っている1+1=2という式だって、1Lと1mLのあいだでは成り立ちません。当たり前だと思うかもしれませんが、1という数字が二つ並んでいればすべての場合で1+1=2が成り立つというわけではないのです。この手の注意がなければ、一般論は現実で効力を失ってしまいます。そうならないために、珍しい発想が湧いてきたとしても、上に書いた二点を検討することは避けて通れません。
 実際、上に挙げた発想の一つ、「すべての人は生まれながらに一定の権利を持つ」についてもこれら二点の検討は避けられません。「すべての人は生まれながらに一定の権利を持つ」という主張はいわゆる基本的人権を唱えるものです。そして多くの国で、すべての国民に基本的人権が与えられています。
 しかし当然ながら、あらゆる場合にあらゆる人に基本的人権が与えられるとすると、問題が発生します。他人の人権を侵害する人がいた時にどうすればいいかという問題ですね。その問題の解決策の一つとして、刑罰があります。法律に反すれば、場合によっては投獄されることもあるわけです。つまり、人はその行為によっては基本的人権が与えられない、剥奪される場合があるということです。この場合を避けて通れば、おそらく世界は無秩序な野放図となるでしょう。
 そして人権についてのこの二点の検討、つまりどのような場合に人権を剥奪する刑罰を与えるべきなのかという審議はずっと国会でなされています。そして結論に落ち着くまでは非常にたいへんな紆余曲折がある。法哲学はある意味で、哲学の必要性がもっともわかりやすく浮き彫りになる場所と言えます。もっともこの言い分では法学のすべてが哲学の一分野となってしまいかねないので、哲学と法学は同じ必要性を一つ持つのだ、というくらいにするのが妥当なのかもしれません。
 このように、珍しい発想をするという役目と、そしてそれを検討するという役目、この二つがあれば、少なくとも哲学の必要性はいくぶんか確保できるのではないかと思います。とはいえそのような領域のすべてを哲学と呼ぶと、この現代ではやや語弊があるようです。哲学が発生した古代ギリシアではかなり広大な学問領域を包括して哲学と呼んでいたことだし、構わないと思うのですが、基本的には人文という呼称が用いられることが現在では多いようです。
 さてしかし、このように説明しても、やはり哲学は不必要なのではないかという感覚的な疑惑は完全に払拭できません。僕自身、そのような疑念から、哲学を毛嫌いしていた時期が高校生の頃にあります。そしてその感覚とはおそらく、自然科学があるのだから哲学はいらないというものです。
 上に書いたような、法律をはじめとしたさまざまな場面での判断は自然科学で扱えるものではありません。我々人間が行う営みには、自然科学の直接的な対象とはならないものや、どうやっても自然科学では扱えそうにないものがあります。人権についての判断はまさにその例ではないでしょうか。それでも哲学は不必要だと思ってしまうなら、すべてが数値化可能だとか、すべてが自然科学で扱えるという感覚が異常に根強くあるからです。
 ここ数十年で、人の心を対象とした自然科学は非常に隆盛を見せました。遺伝子の観点から行動パターンを分析したり、神経伝達物質の観点から思考や感情を分析したり、とさまざまな分野が出現していますし、おびただしい成果が生まれています。しかしそれでも、我々に課される判断がすべて科学技術で代替できる──これは本質的には、AIなどのテクノロジーが人間の代わりに判断するということでなく、どんな判断が正しいのかが基礎的な原理から完全に理解されて、それがあらゆる状況をくまなく網羅するということを意味します──という現状はまだ生じていません。
 さてここから、自然科学があってもしばらく人間には哲学が必要なのだということを述べたいと思います。そしてその主張の要は、やはり人間自体は自然科学のような妥当さを持った判断では生きていないということ、つまりは人間らしさは自然科学の正しさとは遠いところにあるということにあります。
 ここで少し、内容のつながりが切れるので、記事を分割して載せます。続きは次の記事で。

ものの区別という主観的な事実について

 大した理由があるわけでもないですがちょっと更新。僕は、「普通に考えれば何が正しいのかは普通にわかる」という主義はまったく間違ったものであると思うし、そのような社会通念は可能な限り相対化する努力をすべきなのだと思っていますが、そもそもなぜこのような「普通に正しい」というものの考え方が生じるのか。その由来の一つは、数学的なものの考え方が生活のあらゆる場所でも有効だという誤った発想にあるのではないでしょうか。
 僕は数学そのものが誤ったものだとは思いませんが、数学的な思考のすべてがすべての領域で有効なものだとは思いません。「普通」の由来となっている主な考え方とはおそらく、明確に述べられた前提があれば正しい論理によって明確な結論が正しく導き出される、という具合のものでしょう。
 実生活においてこれが成り立たない理由はいくらでも挙げることはできますが、まず「明確な前提」という部分はそう簡単に成り立ちません。人間が事実を正しく認識するのは実は非常に難しく、むしろ事実を積極的に曲解させるためのシステムが人間の心にはあります。そのようなシステムは素早く適当な判断を下すのに役立つこともありますが、そうでないこともある。人間の認識システムは理性的な考えにはそこまで適していないということです。実際、人間的理性とでもいうべき心のはたらきは進化上の歴史の中で非常に新しく若い存在であり、生物が長い時間をかけて少しずつなんとか体を進化させてきたことと比べれば、脳の機能はそこまで長い時間の進化を経てきたわけではないのだとわきまえておくべきでしょう。
 さて話を戻しますが、明確な前提を人間は認識できないということについて。その例としてまず挙げたいのが、分節という現象です。分節とはものごとの区切りや区別をすることですが、人間はどんなふうに説明されるかによって主観的事実が全く変わってしまうことがあるということがここからわかります。
 当たり前ですが、ものごとは着眼点によって様々な区別ができます。左から順にマシュマロと野球のボールとテニスラケットが並んでいたら、「白くて丸いもの」とそうでないもので分けることもできれば、「スポーツに使うものとそうでないもの」にだって分けることができます。あるいは皮膚だって、皮膚全体として扱うのかそれぞれ違う機能を持った層ごとに分けるのか細胞一つ一つで分けるのかとか、区別の基準を変えることはできるわけですね。こういった例については、何をもって区別してどこで分けるかに関して意識的に基準を変えることができるでしょう。しかし、これと違って、いったんある基準で分節されてしまうともう分ける場所を変えることが不可能だというくらいがっちり固定されてしまうこともあります。
 その一番有名な例が虹ですね。雨上がりのあと空にかかっている虹を見た時、我々はおそらくどうやって頑張って目を凝らしても、それが七色に分かれているようにしか見えません。事実七色の帯が弧を描いて並んでいるんだと捉えて問題なさそうなくらい、はっきり七つの色に分かれて見えます。しかし冷静に考えると、この色というのは光の波長に対応しているわけですが、虹の帯の端から端に向かって光の波長は徐々に変化しているのであり、明確な区切りはありません。赤とオレンジの区切りで大きなギャップが生じているわけではない。もし事実をそのままの通りに捉えるなら、赤とオレンジの中間の色が見えるはずだし、事実我々は生活の中でそのような色をさまざまなところで目にしています。にもかかわらず、そのような色は虹の中に見出すことはできません。しかしその色は確実に虹の中にあるのです。
 これは我々が、虹は七色であるという風に教えられて育ってきたことに起因します。この区別はあのニュートンが広めたものですが、そのような分節を教え込まれて育ってきたために、我々の虹に関する主観的事実は固定されてしまったのです。地球上のさまざまな地域で虹がどう見えるのかを調べると、七色でないさまざまな区別をしている民族があることが、この主観的事実の相対性を示しています。数学で与えられる前提のような、明確で誰にも等しい、すなわち公共的な事実を示しておらず、認識は必ずしも公正ではないのだとわかります。ちなみに言うと、昔の日本では虹は五色でしたし、沖縄では一部のお年寄りは虹を二色に区別しています。
 相対的な主観的事実が固定されてしまうわかりやすい例として他にあるのが、生物の区別です。人文科学の分野では、犬と狸がフランス語において区別されないというエピソードが有名ですが、僕たちが身近に経験できるものとしてはタンポポがわかりやすいかと思います。生い茂る雑草の中で、タンポポはよく見知っているために目立つ一方、他の雑草はあまり一つ一つの種を区別しないかと思います。よく観察すれば雑草の群れもいくつかの種が混在しているはずですが、それを意識することはあまりない。とはいえ、この例はタンポポの黄色い花が目立っているだけだという反論があり得るため、あまり有力な論拠とはならないかもしれません。
 分節に関するエピソードとして僕にとって印象深いのは、『火星の人類学者』(オリヴァー・サックス著)で紹介されている、長期にわたって視力を失っていた何人かの患者に関するものです。ここに登場する患者は、十数年とかいった期間視力を失っていた人たちですが、そのうち一人は指を使って(おそらく指を折り曲げて)ものを数えることができなかったといいます。五本の指があるのはわかっても、指の移り変わりがわからないという、我々からするとかなり不可解な事態が起こっていたのだそうです。
 また別の患者については、手術して視力を回復する前からわずかに視力があり、しかもいつもずっと犬を扱っていたのに、「頭、足、耳がどういう関係にあるのか、理解できなかった」と述べています。物を見てそれが視界に映っているから物の場所がわかるという当たり前の前提は、彼らにおいては成り立たない。
 もっとも示唆的なのは、視力を回復してから旋盤を見せられた患者です。最初、ガラスケースに入った旋盤が一体何なのかわからなかった彼は、それを取り出してもらって手で触り、そして「さあ、触ったから、もう見えるよ」と言ったといいます。
 この本のこの章において、患者たちは見えているものの分かれ目を認識するのにかなりの苦労をしているし、そして旋盤の例で分かる通り、視覚以外の感覚によって物の場所を理解しようとします。見えているからわかる、という理屈は公正に成り立つものではないのです。正常な視覚という能力の中には、慣れとでも言うべきかもしくは何か別の、つまり網膜に像が映るということとは別の何かがあって、それが意識に情報を与えているのでしょう。そこにものがあって、それがそのまま視野に投影されることが自動的に公共的な事実になるというわけではない。自動的ではないということは、当たり前だから普通に起こるのだ、とはみなせないということです。我々がものを見てどこにあるのかわかるということは、我々が身体的な認識で公正な事実へ無条件にアクセスできることを示すものではないのかもしれません。そう、この「無条件にアクセスできるわけではない」というところを、「普通にわかるわけではない」と読み替えてほしいわけです。
 最後らへんはあまり分節とは関係のなく、しかも我々自身にあてはめづらい例を持ち出すことになりました。このあたり、もっと実生活に即したレベルで述べるためにも、できるだけもっと本を読みたいですね。

 ところで、僕が分節という概念に慣れ親しんだのは、『意識と本質』(井筒俊彦著)を読んでからです。この本では物がもつ性質としての本質・マーヒーヤと、そのもの自体の個体制としての本質・フウィーヤについて述べており、現象学的に別物だとして書かれていますが、特定のある時点においての認識の中では、一つのものとそれ以外は、そのものが持つ性質すなわちマーヒーヤ的本質によって他との差異をなして区別され、これによってフウィーヤ的本質を体験するということもあるのではないかと思います。認識の中で物の個体性を成り立たせる一因に差異はあるのではないでしょうか。なにぶん難解な本ですので、誤読に基づく反論になっていたらどうしよう。

なんとなく続けている消極的な習慣について

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 最近ポケモンの赤を3DSでやっています。いわゆるバーチャルコンソール(VC)ってやつですね。今年の九月にはポケモン金・銀のVCが発売されるそうで、本当に楽しみです。
 ずっと前から思っていることですが、ゲームの何が一番印象に残るかというとやはり音楽やその他の音全般なんですね。あくまで僕にとっての話でしかないのですが、初代ポケモンで言うならジムリーダーのBGMなんかそう。まさに戦闘が始まる時に現れる「あの」感じ、あの瞬間に世界が変わる体験……大げさな言い方ですが、小さい頃はこの部分を聴きたいがためにポケモンをしていたんだという実感があります。もしくは、ジムリーダーでない他の男トレーナー一般のBGM冒頭が、トレーナーがこっちに近づいてくる時の足の動きにちょうど同調してる感じ(「テッテッタラララーラーラーラーラー」の「テッテッ」の部分)とか、もはや呪わしいほどにしっくりきていたと思います。それは久々に再プレイしてる今でも同じですね。

 ゲームに限らず、何ということのない、何の目的もなく時間を過ごすことは無為であるという通念はわりと根強いものだと思います。中でもゲームは特にそうで、一部のゲーマーが廃人という蔑称じみた称号をもって呼ばれるのはこのためでしょう。後で振り返って、あああの意味の無さそうな時間には意味があったんだと思えたら幸せですが、なんて無駄な時間を過ごしてしまったんだと後悔してしまうと辛いです。まあゲームに関して言うと、僕個人としては東方Projectなんかやってたら過去にやってたゲームの記憶が蘇ってきて、それがすごく生き生きと頭の中で色づいてきたりするために「あああの時ゲームをやってたのは悪いことじゃなかったんだ……」とか沁み入るような想念が脳裡をよぎっていくんですね。つまり東方はこれまでのゲーム体験を肯定してくれるというすごい作用を持っているわけです。あくまで僕にとってですが。

 さて、現代人がやってしまう無為(かもしれない)な時間の過ごし方と言えばやっぱりスマホですよね。特にやることがないとき──いや、何かしないといけないことがあったとしても、その期限が大して近いところになかったりすると──いやいやともすれば、その期限がすぐ迫っていても、とりあえず何となく、スマホのモニターを点けてネットサーフィンなりなんなりして時間をつぶしてしまうのはよくあることじゃないでしょうか。もちろんスマホゲームの存在だって大きい。いわゆるコンシューマーゲーム、要するにゲーム機でやるゲームと違って、スマホのそれはユーザーに何とかして時間を使わせるようにできているし、特に理由もなくスマホとともに時間を過ごしてしまうのは最近だと誰にもありがちなことだと思います。
 それはもちろん僕だって当てはまるわけですが、「この時間を読書に充てていたら……!」という後悔はもうずっと何回もしている。しているんですが、しかしスマホを触る習慣は簡単には抜けそうにもなく、スマホを操作するという半ば自発的な動作を行っているにも関わらず鬱憤を堆積させていきしかもその堆積物を処理したりどけたりすることもせず指をくわえたまま過ごすという、かなり最悪な消極を続けていました。
 これはいけないともちろんずっと前から思っている。だから本は買うし、読もうともするけど、なかなか難しい。内容が頭に入ってこず、本と向き合う姿勢が持続しない。だってなにしろ、スマホを触ってるほうが圧倒的に楽です。
 本を読むことは前進しようとする意志によるものです。それを何とか行使して自分に本を読ませようとしても、こっちは続かない。でも、最悪な消極の行為は続けようとしなくても勝手に続く。自分の意志の力はこんなに弱いのか? とやや絶望しかけていましたが、他の人はどうなんだろうとある時から気になっていきました。それで最近身の回りの人に、「家でなにして過ごしてる?」と聞いてみると、まず第一声に「スマホでゲームしてる」が来て、次に「寝てる」「何もしてない」、たまに「テレビ見てる」なんかが返ってきたりという具合でした。みんなわりとそうだったんですね。
 だからといって安心するわけにはいかない。まあ、先ほど述べたとおり、スマホを触っている時間が全く無駄なのかというとその通りだと言い切ることは現時点ではできませんが、しかし自分の生活がスマホ一色というのはどうも貧しい気がしてならない。そこで、スマホを持つ前はどうだったか、を思い出してみました。もちろんスマホを持つ前はガラケーを持っていたけれど、その頃も割と似たような感じだったので、さらにその前。
 小学校高学年の時分、僕は家では勉強するように親から言われていました。中学受験があったからですね。やらないといけない問題集がでんと目の前にあって、これに加えて塾に行くたび宿題も持って帰ってくるし、とにかく課されてることはたくさんあった。
 しかしこの時期にはなんかやたら本を読んでたんですよね。それはもちろん多分には現実逃避のためです。というかほとんどそうだった。勉強机の棚にいくつか立てかけてあった文庫本を、何ともなしに時々手にとっては何ページかぱらぱらとめくる。どの一冊ももうすでに読んだものばかりでしたが、それでも問題を解くよりはこっちの方がいい。棚に並んだうちの一冊の背に指を引っかけて取り出し、開いたページをとりあえず読むという感じでした。
 今思うと、この無目的さは現在のスマホのそれとあまり変わらないように思います。しなくてはいけないことがあるにもかかわらずそれを無視して別のことをする、そうやってただとりあえず時間をつぶす。読み方だって律儀に一冊の頭から読むわけでもないし、章の最初から始めないことだって多い。とにかくどんなものでもいいから勉強以外のものを読んでいたかった、それに終始した行為でした。
 でもおそらく、そういった習慣があったからこそ、僕は文章を書くのが好きになったんだと思います。あの体験があったから、何度も何度も同じ言葉を繰り返し辿り巡りなおしていたから、こうして表現の工夫のいちいちを楽しむことができる。好きだったある一節を、何度も何度も、そこにそれがあることを確かめるように、それが自分のすぐそばにあることを心底喜んでいたから、言葉の表現の喜びを知っている。そしてそれを他の人にわかってもらおうと文章を書く。えらく美化して書いていますが、それが美しいという感傷じみた沈黙のような溺れが、砂漠のような生活に希望を与えてくれている。あくまで僕の場合はですけれどもね。
 この習慣は、高校生になってから再び体験されることになります。なぜそんなことをしていたかというと、一つにはやはり辛かったから、あるいは面白くなかったからですね。
 何が辛かったのか、面白くなかったのか、と問われて、明確な答えを返すことはできません。あえて言うなら、自分の意志によって自分が前に進むことができるという自信がなかった。勉強したからといって成績が必ず上がるというわけでもなく、また成績が上がったからといって将来の受験で成功すると保証されているわけでもなく、もし受験でうまくいったとしても自分の満足できる何か、成功とか達成とか幸せや喜びの達成があるとわかるわけでもない──小学校の時にしていた中学受験の勉強だって自分の意志によって成績を勝ち得ていたのでなく、親の怒りを買わないように命じられたとおりにしていた結果のものだったという無力な状況を長らく体験していたのも大きかったのかもしれません。とにかく、勉強ができる自分という像を肯定的にとらえることができないせいで、勉強さえしていればいいという風に自身の心を納得させることが僕にはできませんでした。生き方が下手くそなのはこの頃からすでに始まっていたようで、勉強しようとするとすぐにその行為をせき止めようとする拒絶を僕の心身は起こしました……なんだか勉強ができなかったことへの言い訳を長く続けてしまいましたが、実際のところ同級生で一番成績が良かった奴は全く勉強しなくて(本当に全く)もあっさり点数を取っていたりしたし、だから不出来をなじられても否定するつもりは特にない。せめてその程度には潔くしておくくらいの分別は、一応ある。
 いずれにせよ、自分の意志が取った行動によって自分の時間を肯定的に前へ進められるという感覚がありえないくらい僕には欠如していたわけですが、その虚ろさからの逃避として、既に何回も読んだ本をまた読み返すということを僕は個人的な習いとしていました。だけれど、やはりそんなことを繰り返しているとやはり同じ本である以上飽きるのであって、その隣にある別の本を読んだりもしたりしたわけです。そうやって色々な本を読んでいた過去があったんですね。

 さて、冒頭で述べた、無為かもしれない時間の過ごし方に話を戻すと、結局のところ積極的な意志をもってして生活を意味あるものとするのは非常に難しいのだとわかります。しつこいようですが、あくまで僕の場合です。スマホを触ることに終始してしまうという生活態度へ向けたさしあたっての処方箋としては、そんなことをしてしまう理由が慢性的な辛さによるものであり、そしてその理由は慢性的な無力感にある、報われるという将来像、前進できるという自信や自負のなさにあるのだとよくわかっておくことではないでしょうか。そしてまあ、仕方なくという形でいいから、適当にとりあえず本を読むくらいでいい。それに差し支えるくらい本の内容が難しいなら、読まなくていい。それができる時があるとすれば、きっと自信とかいうものが十分心に満ちたときなのでしょう。家でいる時スマホが手放せないという方で、こういった省察に少しでも共感してくれる人がいれば嬉しいです。よくない習慣をなくすのは大変ですよね。僕はひとまず、心の安寧を得るために3DSを起動してユンゲラーを育てようと思います。

言葉の選択による効果について

 小説に限らず、何かしら文章表現をしてみようと思ってから比較的早期に引っかかってしまう問題に、「ような」の連続があります。比喩表現をしようと思うと、けっこうな頻度でこれが出てくるし、しかも比喩以外にも例示というこれまたメジャーな用法が「ような」にはあります。「ボールのような丸いもの」というフレーズでの働きがそうですが、引き合いに出す用法が例示ですね。「綿のような雪」というフレーズでは、綿と雪は違うものであってどちらかがどちらかに属しているわけではないので比喩です。一方、ボールは丸いものに属しているので、例示だと言えるわけですね。
 さて、自分や他人、あるいは小説内に出てくるキャラクターの内面だとかを描写したり、何かしらの光景なんかを描写しようとすると、どうしても「ような」は出てきます。二回か三回くらいならまだ……と許せても、五回も六回も出てくるとさすがに下手糞感が漂ってきて書いている身としてはわりと辛い気分になってきます。だからなるべく違う語を使うわけですが、挙げてみるとけっこうレパートリーはあるわけですね。「~のような」の代わりとしては、~みたいな、~に似た、~を思わせる、~と同じ、~と重なる印象の、~を象った、~を模した……もう少し出てきてほしいところですが、僕がよく使うのはこの辺でしょうか。これらはかなり高い頻度で「~のような」に置きかえることができますが、状況によっては例外的に、もっと特殊な語でも可能だったりします。まあ今回はそれが本題じゃないので省きます。
 さて、「~と同じ」という表現は、いつも「~のような」の代わりになるとは限りません。「彼の手の平は、太陽のような優しいあたたかさを持っていた」というフレーズでは、「太陽と同じ優しいあたたかさを持っていた」としてもほぼ同じ意味で通じます。しかしこの表現をすると、「太陽」という語にかなりの注意が向くようになります。そもそも「太陽と『同じ』あたたかさ」という表現において「同じ」自体がまず比喩ですし、引き合いに出すよりも同じだと言っている方が類似性は高いものとして主張されているわけで、つまり「彼の手が持つ優しさ」の"太陽っぽさ"がより強調されることになるわけですね。だからその前後に、もっと注目してほしい箇所がある場合、この置き換えは望ましくありません。
 もっとわかりやすい例で言えば、「砂のような無味な食べ物だった」という表現を「砂と同じ無味な食べ物だった」とすれば、食べ物の無味性を主張するだけでなく砂が食べ物であると間接的に主張してしまうことになり、???となってしまいます。もっと変な例で言うなら、「彼は太陽のような人だ」を「彼は太陽と同じ人だ」とすれば、もはや彼は人間ではありません。どうしても「~のような」を避けて「~と同じ」を使いたいなら、「私にとって、彼の明るさは太陽と同じものだった」とか、もう少し自然にするなら、「心を明るく照らしてくれるという点で、彼の存在は、私にとって太陽と同じ働きをするものだった」とかになります。後者はなんだか哲学者の自伝みたいですが、まあこれも結局そこそこ硬めの文体にしか合わないものなのでどうやっても不適切な場合はあります。そもそも「~と同じ」を比喩に使うこと自体けっこう硬い表現ですからね。
 このように、ある表現を代替できる別の表現も、状況が限られているということが言えます。「~を象った」なんて、「猫の顔のような形をしたマーク」というフレーズを「猫の顔を象ったマーク」と言い換えられるのは、そのマークをデザインした人が猫を意識してデザインした(であろう)という事実があるからです。「冬のような寒さ」を「冬を象った寒さ」とはできないように、「~を象った」を使える機会はかなり限られてくるわけです。

 さて、振り返ってほしいのはさっき挙げた、「太陽性」の強調のされ方が「~のような」と「~と同じ」のどちらを採用するかで変わってくるという例です。こんなふうに、微妙な差がある言葉を頑張って使い分けて、伝わるニュアンスをそれなりに頑張って操るのが文章を書く上での苦労の一つです。要するに伝わる内容の差を考えて、表現を工夫するのがレトリックというやつなんですよね(多分)。たださっき挙げた例では、結局程度問題じゃないかと片付けてしまう人もいるので、もっと大きく働くレトリックを説明したいと思います。
「平凡な」という言葉がありますね。これによく似た、そして代替できるものには、よくある、普通の、凡庸な、通り一遍の、適当な、といったものがあります。しかしここで、「低俗な」といった表現を使うとどうでしょうか。
 お金がないせいでお腹を空かしている人にはお金をあげればいい、という提案を「平凡な発想」と表現するのと「低俗な発想」とするのでは意味が違います。もっと意図してニュアンスを強めるなら、「俗悪な発想」ともできるでしょう。
「平凡なファッションセンス」というフレーズを「低俗なファッションセンス」「俗悪なファッションセンス」とすれば、やはりまた意味が異なります。俗、という漢字が伝えるニュアンスは、普通、というものに加え、程度が低いとか下品だとかいったものを含みます。
 わかりやすい例として、少し前までの新明解国語辞典における「俗人」の項を参照してみます。第七版現在ではだいぶ大人しくなったようですが、それ以前においてはこんな風に説明されていました。

(一)高遠な理想を持たず、すべての人を金持と貧乏人、知名な人とそうでない人とに分け、自分はなんとかして前者になりたいと、そればかりを人生の目標にして・暮らす(努力する)人。

(ニ)天下国家の問題、人生いかに生きるべきかということに関心が無く、人のうわさや異性の話ばかりする人。
(三)高尚な趣味や芸術などに関心を持たない人。


 これはかなり厳しいですね。しかし、俗という字が伝える意味とはおおよそ誰に対してもこんなところではないでしょうか。俗物のおっさんというものを思い浮かべるなら、金に汚く、出世することばかり考え、他人の評価を気にしてへつらって行動し、そのくせ異性に対する欲求は強く、内心では女性を一人一人価値づけてその上位にある女性と接触する機会をうかがっている──といったところではないでしょうか。したがって、低俗な発想、低俗なファッションセンスとは、平凡な、という言葉が伝える以上のものを伝えることになるわけです。
 こういう微妙な言葉遣いの差からくる意味の差によって、文章が与える体験はガラッと変わってしまう。いや、時としては異なる事実を伝えることもあります。実際、この文章を読んでいる人は今そのような体験をしたわけですね。上の段落を振り返ってみましょう。

 俗物のおっさんというものを思い浮かべるなら、金に汚く、出世することばかり考え、他人の評価を気にしてへつらって行動し、そのくせ異性に対する欲求は強く、内心では女性を一人一人価値づけてその上位にある女性と接触する機会をうかがっている──といったところではないでしょうか。


 おっさんという表現はもちろん男性を指しています。そして性欲が強い結果、自分にとって価値のある女性を追い求めるというわけですが、この表現はあることを間接的に主張しています。それは「普通の状況というのを考えるにおいて同性愛者は無視できるほどに少数である」ということです。繰り返しますが、俗という漢字を含む語はおおよそ、普通の、という意味を含んでおり、俗物という語もまた例外ではありません。つまり、俗物の男とは何かを説明するにあたって女性のことばかり考えていると述べるのは、普通の男の性欲は女に向くんだ、と言っているわけです。
 もちろん、実際問題として同性愛者はかなりの少数ですし、この表現はそう大きく誤ったものではないと考えられます。しかしそれはこのブログを現在読む人、おそらく日本に住んでいて、2017年付近の現在を過ごしている人においてです。例えば、ニューハーフの生徒が非常に高い割合を占めている学校などにおいては──現にそのような学校は例えばタイに存在します──この表現は明らかに誤りですね。そしておそらく、単なる事実誤認という問題だけでなく、同性愛者の存在を無視してあたかも存在しないかのように抑圧する態度の表れではないかという批難さえ起きうるわけです。アメリカなんかでは同性愛者に配慮して法律を改正するよう求める運動が盛んだったりするわけですが、その人の前で上に書いたような表現をするのは明らかに失礼だということですね。
 しかしこんな風に考えると、どのような表現ですらも他人を傷つけうるという事態が容易に起きるのだともわかってもらえると思います。このような状況ではこのようにするのがよい、という表現は、そのような状況でそのようにはできない人を傷つけうるわけです。障害者の方はおそらくしょっちゅうそのような事態に直面しているのでしょう。
 ではどうするべきなのか?その結論は簡単には導き出せない。僕自身は、自分が書く小説においては頑張ってレトリック上の立ち回りをすることで、読者が作品に触れて体験する世界をどうちゃらこうちゃらというくらいの心がけは一応持っています。内面における相対的な事実というものを表すのに、レトリックという現象における語の恣意的選択性はまさにちょうどいいわけです。それがたぶん、小説を書く楽しみの一つなんでしょうね。
 もちろん、ある程度の配慮をすることは一応できなくはない。自分とはあまり関係のない人たちのことを「その辺のようわからん奴ら」とかいった雑な言葉で表現するとまずいというくらいの意識は持っても構わないのかもしれません。
 もっとわかりやすい例で言うなら、東日本大震災、という通称は、あの震災が日本全体に被害をもたらし、日本全体を危機に陥れたのだというニュアンスを示しています。発生当初は「東北大震災」と呼ばれていたのが、今では専ら東日本大震災と呼ばれています。この呼称の変化が、一体どういう理由で起きたのか。そんな視点を持ってみると、身の回りのありとあらゆる表現が違って見えてくると思います。


AIは人間の言葉から女性差別や人種差別を学び取る - GIGAZINE
http://gigazine.net/news/20170418-ai-learn-bias-from-human/



※参考に、僕がいつも小説を書く際、似た表現を探すのに使っているサイトを載せておきます。どれもそれぞれ、サーチして出てくる言葉に「差」があって面白いですね。

類語辞典シソーラス・対義語 - Weblio辞書
http://hyogen.info/
連想類語辞典  日本語シソーラス
http://renso-ruigo.com/
日本語表現インフォ(小説の言葉集):ピンとくる描写が見つかる辞典
http://thesaurus.weblio.jp/

最近気になっているもの1

・アニメ版『キョロちゃん

 下の方にある記事が全体的に固そうな内容なので、軽い話から。おととしの年末、知り合いから「ガルパンの劇場版観た?」と聞かれたので、そもそもテレビ版から観てないよ、と答えると、「テレビ版は観なくてもいいからとにかく劇場版だけは観に行け、絶対」と猛烈に推されたため、行ってきました。作画がすごいとか色々触れる点はあるんだけれど、それはそれとして、僕個人は「ああ、アニメってこういう風に面白いんだよな」ってこと。もう少し言うなら、登場人物の会話ですね。いわゆる美少女アニメ的なものをほとんど消費していない(意外と思う人もいるかもしれませんがそうなんですよ)僕も、ガルパン劇場版にはある種のしっくりくる感じを覚えていました。

 これと同じような感覚ってじつはアニメ版『けいおん!』でもあったんですよね(やっぱり美少女アニメじゃないか)。なんかこう、アニメってこんな感じの面白さだよな、的な。当時はそれは京都アニメーションの作風ゆえだと思っていました。最近はどうか知りませんが、僕が中高生だったころ(2006~2011年)の京アニは、多分僕が一番アニメを観ていたころ(1990年代後半)のアニメへの懐古的な雰囲気がどこかにありました。『けいおん!』以外でそれが一番わかりやすく示されてるのは多分、涼宮ハルヒのEDの映像じゃないでしょうか。この静止画とテロップの流れる感じにどこか既視感を覚える人も結構いるんじゃないかな。

 

 

 さて、『ガルパン』は京アニの作品ではないわけです。しかしこの二作品、『けいおん!』と『ガルパン』の似た感じは僕の中でけっこう強かったわけで、そしてその理由はわりと普通なところにありました。どっちも、脚本を書いていたのが吉田玲子さんだったんですね。

 いまどきのアニメファン──オタクという表現は避けます──の中で吉田さんの名前は普通に知られているだけに、ここに気づかなかったのはちょっとというか、かなり鈍いよね。まあそれは置いといて、とすると、僕は小さいときに吉田玲子さんが脚本を書いていた作品を観ていて、それが理由でこの二作品に対して懐かしいという感覚を覚えるのだと推測するのが妥当でしょう。で、そんな作品はあったのか。ありました。それがアニメ版『キョロちゃん』です。

 

 

 なぜ今さらこの作品を思い出したのか、というと……いや、思い出したという表現はあまり正確ではないですね。かねてから僕はこの作品のことが気になっていました。何しろAmazonでDVDか何か手に入れようと思っても、あまりにもやばいプレミアがついていてとても手が出せそうにはない。かのカルト作品アニメ版『はれときどきぶた』ですらこれに比べれば安価に思えるほどというとんでもない高値で出品されています。数年前までは実家で、時折CSで放送されているのを見つけては食い入るように観てたわけですが、そのものすごい内容に毎回圧倒され、手に入らないもどかしさに身を震わせながらの視聴でした。

 で、これが最近、突然Amazonビデオに追加されたんですよね。なんか唐突に。僕はAmazon Studentに加入しているので、プライム会員の特典として多数の作品を無料で視放題なんだけど、その視放題ラインナップにこの『キョロちゃん』が追加されました。

 そりゃあもうその時の喜びようったらないです。再生してすぐに流れるOPを見た瞬間、昔初めて目にしたときの「え?何これ?」感が蘇ってきたよね。何しろ映像の内容が本編に一切関係ないため、好きなように作ったんだろうけど、もうものすごい。他に何て言えばいいんだ?

 本編の内容は極めてシュール、強い毒とシュールさが、デフォルメされたキャラの織りなす人間模様に垣間見える一方、それらをまとめあげる、心の原風景を映しだすようなBGM。本当にとんでもない作品です。EDも素晴らしい。苛烈と言っていいほどの映像表現、そして悲しさすらも誘う曲。そういえばこれWhiteberryの歌なんだよね。作詞作曲はJUDY AND MARRYの人だし。

 

 とりあえず、余計な言葉は要らないので、時間のある人は適当なエピソードを観ることをお勧めします。今誰でもパッと観ることのできるのは、とりあえずは下に貼った『パン屋さん戦争』あたりでしょう。僕もこの前通して観たけど、すごく好きだよ。