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氷の炎という快楽原則、あるいは宗教について(明晰のことについて)

 明晰でありたい、言ったことの責任を取りたい、そうして操作されえない人間模様を消去したいという欲求の果てにあるものは、氷の炎という快楽原則である。それは冷たいものだ。
 これを氷の炎と名付けたのは僕のネーミングで、裸のラリーズの同名の曲から取ったもの。実現しえない理想という意味で、空想上のものへ不可能な概念を投影している点で共通していると思う。

 


 明晰ではないという状態について

 明晰、自然科学の正しさ、連続性、こういったものを人間は言語によって手に入れた。それらがなければ到達し得なかった事実はあまりにも多く、これらを言語や明晰から供与されたものではないのだとして明晰の有効性を看過することは事実認識としては致命的な欠落となるだろう。
 しかし、明晰でない判断力によって人間がやはり有効な判断を日々下しているというのもまた事実であり、自分にとって明晰に理解できない精神においてなされていることが推論をはじめとする理性のはたらきのほとんどを構成しているのはおそらく事実である。物理学や数学といった自然科学の成果においても、発想を書き表している言葉や記号それ自体は明晰であるが、それが思いつかれるまでの思考過程においては、閃きをはじめとした、自分にとって明晰に理解できない過程がある。しかし、それだけでなく、日常で行っている一般的な動作や動きが、明晰でない精神の働きによって行われていることも、精神における手続きとしての量は無視できないほどに多いのではないだろうか。

 以下は、以前筆者が書いた習作に対して、筆者自らが付した注釈である。

このような体験は人間を一人にすると思う。これはつまり、疎外という事態である。そうやって、人は一人になると言葉の理性で考え始めるのではないかと僕は思う。他者と共有した通念、集団が持つ経験則といった、思考の非明晰な土台を拒絶するとき人がとる態度のある一つが、自分ひとりで、個人で明晰に考えようとすることである。例えばこれが、そうやって人は言葉の理性を志向し始めるモデルケースの一つだろう。この結果、人は責任というものを強く求めるようになるのではないか。集団でいることによって、もしくは集団で共有される判断によりかかることによって、人は責任感を薄めるのだろう。それに苛立たしい思いを抱えるのなら、責任ある態度を追求すること、自分は責任感のある人間になろうとすることは不可避である。
 だが覚えておかなくてはいけない。言語から与えられる理性によってだけでは人間の心の体系は成り立たない。言語の理性として純化された精神になろうとすることは、その人自身の精神の働き、心の機能を著しく低下させ、損なう。
 それは文学においても同じである。作ることは、きっと純化された言語の理性によってでは不可能なのだ。

 



 操作されえない人間模様を消去するために明晰に言ったことの責任を取ることを阻害する行動の一つが、欺瞞である。なぜなら、操作されえない人間模様を消去するには、すべての人が、自らの行為がどのような効果をもたらすと見込んでのものなのかを明晰に表明する必要があるからである。それがなければ、どのような現象が起こるのかを他人は予期できないため、意図的な操作を徹底して行うことが不可能になるからだ。意図されず、また他人が完全な精度で予期することもできない、後に起こる事態は、明晰さを損なうのである。すべての人間がすべての行為において、意図を表明する行為か、もしくは他人が予期することのできる行為かのいずれかをのみすることによって、完全な明晰が実現される。
 これが不可能であるということはわざわざ断る必要もない。どれほど行為の意図を明晰にしようとしても、我々の行為のほとんどが無意識を端緒とするものである以上、不可能でしかない。精神分析やその他の心理学が実証性に欠けるというのなら、自然科学がそれなりの精度でこの無意識の原理を示している。ここについて詳しい説明は省く。

 では、小説、文学においては。
 文学は言葉で表されたものである。上に書かれた行為の明晰さは、「誰が」「何のために」という点に関する明晰さだ。しかし、言葉れ表されたものが明晰であるためには、「誰に対して」という点が明晰である必要がある。
「誰が」「誰に対して」「何のために」語っているのか、これをもし、身もふたもない言い方をすれば、「筆者が」「読者に対して」「面白さやその他の価値ある感覚などを提供するため」と見当をつけることはできる。これらの背景はおよそ隠蔽されている。「誰が」については、一人称や二人称で書かれた小説は少なくとも作者は語り手と別のものであるという装いを大なり小なりしているし、三人称にしても地の文が作者自身の言葉だとして読まれることはほぼないだろう。「誰に対して」についても、読者自身に対してまっすぐと語っている小説はおそらく相当少ない。「面白さやその他の価値ある感覚などを提供するため」という目的についても、基本的には隠蔽されている。それがむき出しとなっていて直接前もって明言されているなら、小説はおよそ小説として機能しないだろう。
 こういった点において小説は明晰ではない。しかし、これらの背景が隠されているという点で小説というもの欺瞞的であるとして、これらの背景が、書かれるという現象のすべてを還元できるだろうか?書くという行為、ではなく、書かれるという現象、という表現をしたのは、やはりそれが明晰な意図から生じた現象ではないからである。少なくとも、純文学と呼ばれる小説では、書かれるという現象は上に挙げた背景に還元されるものではない。
 そこの非明晰な何かを明晰に語ることはできるのか?それは非常に難しいことのように思われる。そしてそれが、文学の面白さを作っているのである。なぜそう結論付けられるのかというと、文学をはじめとした創作物の数々において、明晰な価値よりも、非明晰な現象の方を、面白いと思った経験が筆者にとっては多いからなのである。