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自然な正しさと明晰 1

 あることを判断するにあたって、人は大量の判断材料を用いるし、その多くは意識の中ではっきりとした形を取らず、直接には確かめられないことがほとんどである。あるものを買うか、買わないか考えるにあたっても、それが生活のどのような場面で役に立つかについて頭を悩ませているつもりでも、実際は、それを部屋のどこに置くか、置くとすればそれに十分なスペースがあるかとか、経済的な余裕の度合いだとか、自分以外に誰がそれを使うかとか、それはだいたいの他の人も持っている物なのかそれとも誰もそんなものは持っていないであろう珍品であるのかとか、こういう知識は前提条件として頭の中にあるのであって、意識せずともこういった前提は判断に対して強い影響を及ぼす。役に立ちそうなものであっても、それを使っている人を誰も知らない場合のほとんどで、誰でも使っている場合と違って結局買う気になれずその場を立ち去ってしまうという経験は、きっと多くの人に共通のものだろう。
 こういった、自分自身の意志や意識では直接確かめていない判断の根拠が、我々の意志や意識に対して強い影響を与えることは非常に多い。そしてそれは人間関係においても同様である。ある人に何かしらのことを勧めたり提案したり、あるいは逆にしないように勧めたり時にはしてはいけないと禁じたりするにあたっても、我々はその判断に関する事情のすべてをその人に言うわけではない。そのような判断の前提を言わない理由というのは、言いづらいとか言わない方がいいとかいった自覚的な原因だけでなく、やはり単にはっきりと確かめていないというだけのこともやはり多いのである。しかしあなたがそれを口に出してその人に言おうが言うまいが、その前提というのは、勧めたり禁止したりするように判断したことに大きな影響を与えた原因であるのだ。
 一般に、他のことは言ったにもかかわらずある重要なことを言わないのは、嘘の一形態であるとされている。実際に、重要であることを言いそびれてしまったら、相手は怒ったりすることもあるだろうし、もしくはそれを知らなかったことによって損害を被ったためにあなたを責めたりもするだろう。重要なことを言わないでいるのはある種の罪である。
 とはいえ、さきほど述べたとおり、我々は大事なことであっても単に思い浮かばないというがために他人にそれを言わないことが多い。言えば他人に大きな影響力を持ったはずのことを、故意でないか故意であるかに関わらず言わないでいることは決して珍しくない。
 このようなことは自然現象においてはありえない。ものが、それが持つある性質によって実際の因果関係においてある現象を起こすのなら、それはやはりそのような現象を起こすのであって、特に理由もなく、もしくはそのもの自体がその性質によって現象を起こさないように意図して、その現象が起きなかったということはないのである。別のものが作用してその現象が起きないということはあり得るだろうが、そうでない限りはやはりものが持つ性質によって必然的に起こされる現象はすべて起こるのである。
 だが我々の人間関係においてはそうではない。言わなかったとか、あるいは発言以外でもすべての言葉によるコミュニケーションでの不通、いや言葉に寄らないすべての種類の伝達においての不通は、他人との間で起こるはずの現象を起こさない。それは自然現象とは根本的に異なるのである。
 こういった不通は二つの意味で後ろめたさを生じさせる。一つは、通俗的な理由であり、いわゆる嘘を付いているという点である。もう一つは、これが自然な正しさに反するということである。
 我々は自然な正しさというものを言葉とともに与えられ身に着けている。そしてその通りに話しその通りに生きるように教えられている。だが、実際の人間関係ではその通りにはならない。この現実を、心の中に押し殺すように、つまりそんな後ろめたい事態はほとんど起きていないし起きていたとしても現実の中ではあまり意味のないものであるという風に、我々は意図的な無視を決め込んでいる。そういった処世術はおそらく、成長に伴って身に着けるものである。
 とはいえ、実際問題として、自然な正しさへ帰依するかのような盲信をしている人は、この種の、顕在的な人間関係をはるかに超えて人間の内面の現象が豊かであるという事実を、抹殺するかのようにひたすら無視を決め込んでいる。しかし現実に、それはあるのである。
 精神病理学において、都合の悪い事実を無視してひたすら強固な主張を行ったり何かを強行することをディナイアルという。負けそうな戦争をわざわざ行うのも、負けるはずがないというディナイアルの心理に基づくことがあるのだとする説もある。この戦争の例が本当に正しいのかはともかく、似たような事態はやはり起こっている。それこそが、自然な正しさをいたずらに肯定する態度である。
 だから自然な正しさをひたすらに信じようとする人は、人間は自然な正しさのもとそれに従って生きるべきであって、それと異なる生き方は本来そうあるべき生き方とは外れたものであり、良くて亜種のようなもの、そうでないならまったく判断不可能で扱うこともできない、ただとにかく無価値もしくは悪であると考えるのだろう。もしくは、自然な正しさのもとに行われない人間の行為などあり得ないとか、自然な正しさに従わない人間など存在しないとか、もう少し穏やかな言い方であれば、自然な正しさに従うやり方のもとにない善や良さなどありえないという信条が生じてしまうだろう。
 実際問題、自然な正しさの枠内に収まらない人間の活動はいくらでもあるし、また自然な正しさに収まらないどころかそれと反するような善や良さだってあるのである。それを例えば、子供の発育における種々の精神的能力、例えば計算能力だとか想像力だとかいったものを育むにはプラスに働くが自然な正しさには反しているものなどの例を挙げていちいち説明したってよいのではあるが、そんなことをせずとも、こう言うだけで十分である。「自然な正しさに該当しない善や良さがどんなものかわからないのは、それから目をそらすためのいたずらな努力をしているからである」と。
 
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 自然な正しさを信仰する人が、意味のない物事を忌み嫌うのは、連続性が断たれるからである。意味という概念は一見多義的で、語の指すものだとか物事の価値だとか様々な用いられ方をされるが、いずれにせよある現象の次につながる別の現象であることは確かである。シニフィアン(指示するもの)──シニフィエ(指示されるもの)の間には実は時間の流れがある。人の心の中ではそうなっている。そのような、時間が流れて現象が次につながっていく連鎖が起こらなければ、目の前の物事は自然とは異なってしまう。自然な正しさに帰依している人々は、すべての物事は自然な正しさのもとになければいけないと思っており、なんとしてでもその命題を成り立たせようとするのである。
 
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 いわゆる人生論の類を初めとして、人間はやたらと、物事の良し悪しなどにおける判断の方法について自分の見解を語りたがるものである。それらが独自のものであり、また通俗的な方法や認識とかいったものに比べてそれらが有効であったり事実に即したものであったりするのだと言わんばかりに、さも誇らしげにそれらを主張する。筆者からすれば、そのような行為は単に無意味なだけでなく、語っている当人の心を糸のようなもので絞るように縛って苦しめるものであるように思える。彼らはそのように見解を語っているとき、本当に言いたい本質には決して触れられない歯がゆさを持て余しているようにも見えるし、また述べていることがそこまで誰にでもあてはまるわけでもない程度の理屈でしかないのに、さも普遍的真理であるかのように述べていることへの後ろめたさも持て余しているように見受けられる。判断についての論理を、他者にもそれへ倣うように勧めるように述べているとき、人間はあさましい姿を露呈している。そもそも、判断の方法についての個人的見解というのは論理的な妥当性が乏しく、あったとしてもきわめて限定的な場面でのみしか通用しないのであり、わざわざ他人に語るほどのものではない。なぜわざわざこのような行為に出るのだろうか。
 著者が思うに、言葉を使って考え、言葉を使って話すという行為をしている時点で、実は我々は、そのような行為は他者のためのものでなければならないという強迫的な考えに囚われている。我々が普段から使っている言葉は、我々の行為はすべて他者のためでありその倫理を守らなければ人は正しくないのであるという風な考えへ、人を誘導するのである。そして言葉を使う行為は、自然な正しさへの屈服を人に強い、我々の心の中にどのようなものがあるのかという実情と関係なく、他者を愛しているかのように自分を振舞わせようとするのである。もちろん、この愛は実際に人間が愛として持ちうる感情とはかけ離れた、いわば血も涙もない規律のようなものであり、そしてそれを愛だと勘違いするところに人間の悲劇性があるのではないだろうか。自然な正しさを信仰し、他者にもそれを強いることが愛だというならば、自然な正しさによって生を狭められ苦しめられている目の前の他者は、正しさに従えない人でなしとでもいうのだろうか?
 このような強迫的な心理を引き起こすのは言語である。第一部で、言語によって与えられたいくつかの連続性について語ってきたが、そこでは触れていなかった連続性がもうひとつある。それは、同じ言葉を喋り続けなければいけないという連続性である。
 言葉はそもそも他人との意思疎通のためにある。したがって、語のそれぞれの意味が一定でなければ他者と意志疎通できないことからいって、共有される言語の語がほとんど固定的であることは不可避的である。そして、人間はおおよそ誰でも、個人的な営みのうえで用いる言語も、これと同じものである。つまり、固定的な語彙で話すという他人に通用するための事情が、個人のことにまで影響を及ぼしているのである。
 この、個人の営みにおいても固定的な語を用いるという事態は、人間の精神にとって非本来的である。人間が持つ、語を運用する能力はそもそも、その時その時で異なる記号の運用をするようにできている。つまり、音や文字の形など指示するもの(シニフィアン)とその意味する対象(シニフィエ)の結び付け方は、その時その時で異なっている。だが、我々は他人に話しているのと同じ言語で自分自身がどのような人間であるのかを考え、自分がどうあるべきなのかを考え、自分が結論を出したいと思うことに向かって考える。これらの営みが、他者に合わせた同じ語彙で行われているため、そういった思考には「他者のために」とか、ともすれば「常識という自然な正しさを守るため」という目的がいつの間にか入り込んで、ゆがめられている。
 つまり、他者と共有している言語を自分の営みにも用いる限り、我々は思った通りに自分のことを扱うことができない。この苦しみは極めて強烈なものである。物理的な必要性を超えて言語が変化していくのも、これが原因のひとつである。我々の心には大なり小なり、他人に遠慮して固着させていた語とは違う言葉を話したいという欲望がある。他人に通じにくい観念的な語を使うことにある種の快感が伴うのも、これが原因である。他人に遠慮しないような、個人的な語の運用をしたいという欲望があるのである。
 
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 人間の心の中では、特定のシニフィアンと特定のシニフィエの結びつきが固定的ではなく、流動的である。したがって、その結びつきによって起こる分節も固定的ではないため、人間の心の中ではある観念があおの観念であり続けるということ、すなわち「それがそれであること」という、明晰であるために最低限必要なことすら成り立たないのである。それが、自然な正しさへ従属しなければならないという強迫によって矯正されて、自然科学の場以外においても連続的な論理を述べているのである。
 
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 自然な正しさとは神経症の原型である。同じ言葉を使い続けなければいけないという連続性を強いる状況は、我々を虐待している。自然な正しさとは、それを無理やりに肯定しようとする症状でもある。それは例えば、過酷な虐待を親から受けている子供が、親の態度や人格を、無理やりに肯定することによって、親と言う自分自身にとっての世界を支配する者の悪しき部分を隠蔽することで、世界全体が否定されてしまうのを避けようとしているのと同じである。我々が生まれ育った時から教えられた言葉を母語と呼ぶのは、決して偶然ではない。われわれは、同連続的な語彙で生きなければいけないという虐待を、母語から受けているのである。正しくあらなければいけない、と言う神経症の症状は、この母からの虐待と、それへ否認(ディナイアル)による隠蔽によって、原型が作られたのである。つまり、自然な正しさを守らなければいけないと言う強迫観念は、社会全体で共有されている神経症なのである。しかし、1部で述べたとおり、我々が我々自身として存在していると言う自己認識、アイデンティティーは、午後によって作られている。つまりわれわれは、アイデンティティーを守るためには、この神経症のもとで、甘んじて生きなければいけないという脅しを受けているのである。