自然な正しさと明晰 2

 「言葉」と「光」は対極のものである。どちらも、対象をはっきりさせるものではあるが、「言葉」は「わたし」と「あなた」の境目を失わせ、同じ人間として融合した精神であるように生きさせる。「光」に照らされた時、「わたし」と「あなた」は、違う存在であることが明るみに出る。暗闇の中で語られる言葉を聞いていると、「わたし」が話す言葉と、「あなた」が話す言葉はどちらがどちらなのか区別がつかない。
 言語を話すということは、自然な正しさというものに引かれて泳いでゆき、その中で「(自分が認識している)世界全体」という仮想的な場所でその世界の他人全体と一体化しようとすることである。
 我々は、共有されている言語を使っているために、他人とつながらなければならないという強迫観念を植え付けられている。この過度な社会化は、神経症と同じ原理で生じている、神経症よりも根源的で重篤な病である。それと同時的に、自然な正しさに従わなくてはならないという強迫観念もまた我々を突き動かしている。その症状は一見、他者を愛さなくてはならない、人にとって有益な存在でなければならないという常識的な考えであるかのように思える。しかしそれもまたやはり神経症と同じ原理で生じた病であり、このことによって人間は、恐ろしい嵐の中に呑みこまれて生きることを余儀なくされているのだ。
 言語は、「自然な正しさ」と「過度な社会化」を我々にもたらす。自然な正しさという、イメージ上の他者から与えられた感覚をもって他者と関係していると、自然な正しさから逸脱した他者の出現に常に立ち会うだろうし、そもそも人間は自然な正しさの中にいないということをわかることを余儀なくされる。だが、過度に社会化された人間は、そうした他者とのつながりすらも断ち切ることができない。そこで、過度な社会化によって人間がなす他者への献身は、他者を自然な正しさへと矯正する方へ向かうのである。
 実際にはそれはうまくいかない。しかしそれが不可能であれば、人間は、「自然な正しさ」と「過度な社会化」の間の摩擦の中で生きなければならなくなる。だからこそ、他者を矯正しようとする欲求は強いのである。