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その1

 カンブリア紀のバージェス動物群がどのくらい長いこと生きていたのか僕は知らないし、今ちょっと調べてみた感じでもあんまりよくわからなかったのだが、たぶん何百万年か何千万年かは生きていたのではないだろうか(カンブリア紀は五千万年ちょっと)。これに対して、言語を使う能力を人間が得たのは、それよりは桁がひとつかふたつくらい落ちる。
 この比較がどのくらい意味のあるものなのかはよくわからない。人間の進化は加速していっているという説もあるから、進化の程度をかかった時間で測るのは不適切かもしれない。それに、言語というのがどのくらい脳の器質的な変化を要するものなのかもいま一つはっきりとはわかっていないらしい。
 とはいえ、脳の物理的な変化なしに言語が生じなかったというのは確かなようである。ここでいう言語というのは、「私、リンゴ、食べる、リンゴ、食べる」みたいなレベルの単語の羅列にとどまるものは含まない。ある程度は複雑な文構造を可能とするものでなければ言語とは呼ばないこととする。
 ここに境目を作るのには大きな意義がある。現在生存が確認されている霊長類の中で、この定義での言語を使用できるのはヒトのみだからである。ボノボやチンパンジーやゴリラも手話を教えればある程度の意思疎通はできるようになるらしいが、先ほど述べた単語の羅列に終始する程度の会話しかできないのだ。このあたりのことは、この前読んだ『言語の脳科学』(著:酒井邦嘉中公新書)に書いてあった内容だ。
 
 
 さて、僕が問題にしたいのは、言語というのは進化によってどのくらい自由に使えるものとなったのなのかということである。我々は、今自分たちがこの姿で生きているから、今のヒトが進化の完了した地点であると勘違いしてしまうことがあるが、それは誤りである。例えば盲腸や尾てい骨みたいなものは類人猿だったころの残滓として残っているし、これらが進化の中で退化し消滅していくものであるなら、我々が進化の途上にいるということも事実として呑みこめるのではないだろうか。
 さて、もちろん痕跡器官の退化だけが進化ではない(この言葉の使い方は適当なものなのかよくわからないが便宜上こう表現する)。言語の発達に話を戻すが、人間は現段階で、どのくらい、言語を自然に使える生き物となったのだろうか?
 カンブリア紀の動物に限らず、それまでの進化の脈略から比較的大きく外れた形質というのは、最初は不具合が多い。言語にしたってそれはきっと同じだろう。ということは、言語はまだ進化の余地がある。いや、というよりは、人間の、言語を扱う器質的能力にはまだ進化の余地がある、と言いたい。
 なにしろ、人間の進化と言語の進化は、お互い依存しあうところは大きいとはいえ、まったく同期しているわけでもない。ミームという生物に喩えた尺度で考えれば、つまり拡散していく中で複製されまた時々偶発的な変化をきたすものとして言語をとらえるなら、言葉の交換が人間の中で行われていく中で、人間の器質的な事情とは別に言語の進化が起こっていくとわかってもらえると思う。
 さて、そうは言ってもやはり高々人間が使うことのできる程度の範囲内でしか言語は変化しないという意見もあるだろう。だが、ものすごく頑張って頭を働かさなければ使えないというのと、特に意識せずともすらすら使えるというのでは事情が違う。特に人間の脳なんて、可塑性もそれなりにあるし、日常の中で言語を使う必要性があればそれまで言語にあてられていなかった領域が無理矢理言語のために動員されるとかいう負担が生じる可能性だってありそうだ。腕の力の弱い人はハサミや小さいナイフ程度なら大した労苦もなく使えるかもしれないが、青龍刀を使ってデカいものを切るのには非常に体力を要するだろう。我々にとって、現在の言語の形は、楽に使えるハサミなのか、それとも物々しく大仰な青龍刀なのか?
 
 僕個人の感覚からいえば、人間は言語を使うことによって、不具合や労力の少ない生理的に自然な営み以上の行為が可能となってしまったように思う。言語がなければわかるはずのなかった、知るべくもなかったことを知ってしまったように思う(ここでの生理的とか自然とかいう語の運用はサイエンスの用法ではなく通俗的なものである)。
 とりあえず今日はこの辺にしておく。
 
 
 
映画『イノセンス』の一幕。すごく好き。
 
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