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その2

組織も人も、特殊化の果てにあるのは緩やかな死。それだけよ
 
 土曜は朝から名古屋に行って人に会ってきました。それで今日の朝帰って来たんだけど、やっぱり街を歩くのは誰かと一緒にするほうが楽しいですね。以前に梅田から天王寺まで一人で歩いた時、「あ、この時間は誰かと一緒に過ごした方が楽しいだろうな」と思ったことがあったけど、やっぱりそれはそうなんだろう。名古屋という街に行くのは今回が初めてだったんだけど、色々な発見がありました。その話はとりあえずおいとくとして……
 
 神経症があると物語を楽しむことは難しくなるのではないか、と最近思っています。必ずしもその図式が成り立つわけではないですが、とりあえず僕の場合は、神経症的な精神状態のせいで小説があまり自由に読めない時期があった。どうやっても話が頭に入ってこないんですね。何回読みなおしても意味がわからない。
 思い返してみると、この事態が起きたタイミングは、小説家を目指そうとし始めた時期と重なってる。原因はたぶん、自分が小説に書こうと思っていることを表現しようとするベクトルが心の中にあって、それと違うことを考えられなかったからだろう。頭の中に浮かぶ、自分の想像している小説像を実際に体現させる表現へ落とし込むことっていうのはもう予想をはるかに超えて異様に難しいんですね。とくに文体や演出においてそういう意図を持とうとすると。
 わりとそういう事態は小説の執筆以外でも起こるような気がします。思い通りにしようとすると挙動がぎこちなくなって、普通に自然にできるはずのことができなくなる。スポーツ選手でもイップスという神経症に掛かるとこういう症状が出てきますね。
 この、「思い通りにしようと意図しすぎるあまりぎこちなくなって何もできなくなる」という、帰納から出現した概念に対して、原因を言語に求めることはそう珍しい発想ではありません。神経症というとやはり精神分析を取り入れた治療をするという印象がありますが、精神分析はその人の持つ言語的なイメージを辿る手続きだからです。
 少し話が飛躍したので、拙論『摩擦と明晰』からちょっと話を引っ張ってくるよ。つまり、人間は言語によって、それまで認識したり思考したりできなかったはずのことを思考できるようになった。そしてその究極の形こそがきっと、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で書いたような、完全にすべてが明晰に語りうる因果関係の把握の仕方なのだろう。しかし、現実の人間の思考というのは、理想化された明晰な論理によるものとは程遠い。認知科学系の書物を読んでいると、思考の本質は細部までの明晰化というよりは包括的な近似にこそあるのではないかとすら思えてくる。
 つまり、思ったこと、思い浮かべている概念の一つ一つをそのまま現実に反映させようとするやり方は、「言語的」な思考なのだと僕は言いたい。そしてそれは人間にとっては非本来的で、そのような方法論は人間にとって、無用の長物とは言わないまでも、任意に使いこなすことは到底不可能な代物なのではないか。
 もちろん、自然科学においてはそれはある程度は容易なことだと思う。なぜなら、参照する対象として、自然という連続性を持ったものがあるからだ。しかし、参照する対象が自然現象ではなく、自分自身だとしたら。言語は、人間が連続的思考をするのを可能にしたけれど、それでも人間はまだまだ言語を使いこなせていなくて、動物的な次元にとどまっている。
 では、人間は動物たちと同じように、思考することなどできない存在なのだ、と結論付けることは明らかに誤っている。自然科学の領域となるものを対象とせずとも、人間はそこそこ妥当な判断を現実において下しているからだ。それでは、その思考とは何なのか?
 ここで参照したいのが、ダーウィンが研究したというミミズの例である。このダーウィンは、自然選択説を唱えたあのダーウィンである。ある種のミミズは、自分の掘った穴をふさぐのに、葉っぱの柄をくわえて引きずりいれるのだという。そして、適切な葉っぱを選ぶ際に、画一な判断基準によってでなくて、その時々で、試行錯誤しながら色々な葉っぱを使うのだという。
 これが思考でなくて何なのだろう?単に本能に従っているだけの狭い行動様式であるという風にさげすむにはちょっと高級すぎるのではないか?そもそも本能というと、単純に定式化できる行動様式だという印象が強いが、それは誤りなのではないか?
 というよりもむしろ、言語によって思考した内容を行動に反映させる方が行動様式としては狭いのではないかとも思われる。なにしろ、言語で考えている以上、現実の行動に反映される前の潜在的な行動のすべては命題化されているのだから。
 
 ここまで書いてちょっとしんどくなったからこの辺でおいておきます。素直に本を読めるようになったという話ももう少ししようかと思ったんだけど、今回はここまでにしとく。高校生の頃は、頑張ったら哲学書なら何とかちゃんと読めたんだけど、小説に関しては文体を味わうことでどうにかこうにか最後まで読むということしかできなかったんだよね。だから文体が合わなかったらきつかった。でもそれから何年か経った現在、ついおととい、文体が合わないという理由でずっと敬遠していた『とある魔術の禁書目録』の一巻を読めましたよ。面白かったです。
 なお、引用したミミズのエピソードは、『アフォーダンス入門』(佐々木正人著、講談社学術文庫)で説明されていたものです。