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摩擦と明晰

『摩擦と明晰』
連続性と自己、自然な正しさについて(暫定版)
 
 
 
1章 不連続な自我
1.1不連続な認識とそれをつなぐはたらき
1.2不連続な理性と自然
 
2章 言語が与える連続性と自然な正しさ
2.1言語、自然、時間的連続性
2.2言語とつながりと実存
2.3言語と常識
 
3章 つながりとともに生きる
3.1自然な正しさの是非
3.2自然な正しさの影響力を縮小させる試み
3.3哲学と文学、人文の未来
 
 
 
1章 不連続な自我
 
1.1不連続な認識とそれをつなぐはたらき
 
 まず、意識の不連続性について述べたい。我々は論理というものを扱おうと意図するとき、もちろん意識の中でこれを扱っている。正しい論理を述べようとする際、その論理には連続性があることが必要である。この連続性という語は、原因と結果のつながりがつながり続けていて切れていないということを指す。
 例えば、風が吹けば桶屋が儲かるという故事成語がある。一つの出来事から巡り巡って一見関係のない事態に発展するというこの寓話は、「風が吹いて砂埃がたちそれが目に入って失明した人が三味線を弾くことを生業としたため三味線の原料になる猫が捕獲されて猫がいなくなったから増えたネズミが桶をかじるので桶の需要が増えて桶屋が儲かる」という連続性があるから寓話として成り立つのである。これが、風が吹いたことが直接的な原因となって桶屋を儲からせるというふうに語られれば、とてもありそうもない話にしか聞こえないだろう。過程が連続していることは、その主張が論理的に正しいものとして見なされる必要事項だし、そうでないものは「飛躍」した、つまり破綻した論理として見なされるだろう。
 これは論理が、実際に起こるであろう現象を模したものであるところに由来する。論理的に正しいとは、とりもなおさず、実際に起こるということである。非現実的な状況を想定して論理を述べようとする場合であっても、そのような状況が実際にあるならば、という但し書きを付ければやはり同じことである。実際に起こる現象はすべて因果関係に基づいて起こる。誰かが歩いたらそれが直接的な原因となってどこか遠くの惑星が爆発したりはしないし、風が吹いたらそれが直接的な原因となって車がパンクするということもあり得ない。後者に近い事態が起こるとすれば、風が吹いてそのせいで尖ったものが飛んで車のタイヤに刺さったとかいう状況を想定できるが、「尖ったものが飛ぶ」という過程をはさんで連続性を作っているからこれは成り立つのである。このような連続性は、ごく一部の物理学で唱えられる例外を除けば、自然科学においても我々の生活においても、実際に起こる現象の前提である。
 では、我々の意識は、その実際の現象を模倣するにあたり、十分連続的にものを考えられるのか。
 まず、我々の視覚についてである。視覚は連続的ではない。右目と左目が互いに盲点を補い合っているという以上に注目すべき事実がある。例えば目の前の石を誰かが手に取って動かし、再び地面に置いたとしよう。この間、石という存在自体にはなんら変化はないし、我々もその石に関する自分の認識が変わったという風にはほとんど思わないだろう。つまり、石に関して連続的な視覚を持っていると自認している。しかしこれは誤りである。脳のある部分を損傷した患者には、止まっているものは見えるが動いているものは見えないという症状が生じるからである。1この事実は、止まっているものと動いているものとを我々は脳の違う部分で処理しているということを意味する。つまり、視覚は連続的ではないのである。視神経は正常だが幼少期から白内障でものが見えていなかった患者は手術で白内障を治療しても、ものを触って確かめることで初めて細部までの視覚が生じるという例もある2。ものが存在しているままに我々は知覚や認識をしているのだという発想は明らかに間違いである。
 聴覚についても同じことが言える。我々の耳は音のすべてを拾っているわけではなく、一部だけを拾って、それを憶測によってつなぎ合わせて音を認識する。2006年の暮れに、『探偵!ナイトスクープ』というテレビ番組で、二通りに聞こえる音について特集されていた。3携帯のカメラで撮った時のシャッター音が、ほとんどの人は「撮ったのかよ」と聞こえるのに、一部の人は「エイアイアイ」と聞こえる。後者に該当する人々の多くは、外国人や子供といった、日本語に対する思い込みの少ない人々であった。つまり、カメラのシャッター音であるという前提条件から、どのような音が聞こえるのかを推測して、「撮ったのかよ」という風に聞こえたという認識が作り上げられていたのだ。ちなみに、この音をスローモーションで再生すると、かなりの人に「エイアイアイ」と聞こえる。
 この事実はいうなれば、「カメラで撮ったから『撮ったのかよ』という音が鳴った」という風に認識が作り上げられたということを意味している。つまり、連続性が作り上げられていたのだ。さっきの止まったものと動くものの視覚についてもそうだが、我々は、元々外界から入ってきた不連続な情報を無理矢理つなぎ合わせて認識を作る。そしてつなぎ合わされたものが意識に入ってくるので、それらは元から一つのつながったものとしてそうであったかのように、いわば天衣無縫のものとして我々は捉えている。だが、それらはそもそも、不完全で不連続な情報なのだ。我々の認識は外界のあるがままの姿をそのまま引き写したものではないし、我々が知っている姿は確かめるまでもなく連続的であると言うこともできないのである。
 であっても、正しく現実と同じものを認識できているのならそれでもいいかもしれない。しかし我々の脳にはしばしば錯覚が生じる。これは、入ってきた情報をそのまま処理していれば起こるはずのないものである。連続性を作り上げるという例でなら、サッカードという目が速い動きをしたときに起こる現象が適当だろう。時計の秒針の多くは、一秒ごとに一秒分の角度で動く。こういった秒針は、一つの場所でとどまるのはおよそ一秒であるはずである。しかし、それに反した認識が生じることがある。まず時計を見て、次に時計から多少離れた場所を見て、それからすぐに時計の方を見る。このとき、視線の先を再び時計に戻す動作が素早ければ、秒針は一秒以上同じ場所にとどまっているように見える時がある。これは、視線を動かす間は何も見えていない空白として脳が扱うため、その空白を埋め合わせて連続性を作るために、空白の時間も秒針が同じ位置に見えていたものとして脳が処理するためである4。このように、誤った連続性が作り上げられることもある。
 サッカードの例にしろ、そうでない錯覚にしろ、これが錯覚だとわかっていても同じ状況を再現すればやはり同じ錯覚が生じる、つまり同じように誤った認識が生じるという点は極めて大きな意味を持つ。こういった例から、一つの結論を導き出すことができる。実際に起きている現象、つまり現実は連続的であるが、我々はその連続的な現実の本来の姿を知ることができないし、また視覚や聴覚といった一見連続的に見える認識も、実は連続的な現実の姿をそのまま知ってそうなっているのではなく、無理やり連続性を捏造しているということだ。最初に述べたとおり、論理を正しく述べるには、現実の連続性を正しく再現できる必要がある。しかし少なくとも認識の連続性に関して言えば、我々はしばしば誤るのである。
 ここで、行動経済学者のダン・アリエリーがTEDで述べたことを参照しておきたい5。視覚は他のどの能力よりも我々の脳の大きな領域を使う能力である。そして一日の大半我々はものを見ているし、人間は視覚に合わせて進化してきた。それでは、他の機能についてはどうなのだろう?氏は経済学者なので、投資だとかいった、脳にその機能のための部位があるわけでもなく物を見るほどの時間を費やしているわけでもない、ましてや人間の進化に関係のない行為はどうか、という問いかけ方をした。しかし、この原理はおそらく、視覚以外のすべての脳が担う機能に適用できる。
 これまでに述べてきた文脈に対して、ダン・アリエリーの述べる原理を適用するなら、こう述べることができる。我々の精神活動のほとんどすべてには、連続性という、正しい論理を述べるために必要なものが欠落しているのではないだろうか?
 さて、この問いから、さらに話を展開させていこう。
 
 
 
1.2不連続な理性と自然
 
 まず、自然というものについて話を進めたい。この自然という語は、自然科学(この語はnatural scienceの直訳)という語彙で指し示されるところのそれを考えていただければわかりやすいだろう。
 現実と照らし合わせて正しい論理を作る能力を人間が欠いているのではないかという主張に対して、おそらくもっとも有効な反論は、自然科学を持ち出すことだろう。自然科学という分野における発見や発明の数々は間違いなく人間によるものだ。ここに著しく連続性が不足しているならば、現に成り立っている我々の文明を説明するものはなくなってしまう。
 だが、自然科学というのは決して人間が単独で作り上げたものではない。自然という、連続したものを観察し参照し続けることによって成立しているのである。つまり、人間が純粋に自分の理性だけを用いて推論する過程に連続性があると唱える材料としては、自然科学の正確性は不適当である。それならば数学はどうかと言う反論もありそうである。数学は公理という人間が作り出したものを元に発展した学問だが、それでも数学は自然科学の一部であり、また微積分や線形代数の初頭なものからさらに高等な最先端のものまで、さまざまな数学の成果が他の自然科学に応用されていることは確かである。だから、数学は自然を観察したものではないが正当であるという意見もあるだろう。確かに、数学は自然現象を観察することで発展してきたものではない。しかし、自然の代わりとして数学では常に公理が参照されてきた。既存の定理を参照すると、それらが公理を初期条件として成り立っているため、自動的に公理も参照することになる。その結果、数学は常に公理という連続性に貫かれている。数学が他の自然科学に応用され得るのは、この連続性と、そして公理が現実の自然に非常に近い形をした高い汎用性をもつものであるためであろう。
 そういった、常に根拠として参照し続ける、絶対的な正しさがあるときは、人間の理性は非常に高い水準の推論が可能となる。しかし、そうでない場合はどうなるのだろうか。自然科学とは異なり寄りかかることのできる絶対的な連続性の存在しない生活のほとんどの場面において、我々はどれくらい連続的な推論を、すなわち根拠と判断のつながった推論をできるのだろうか。
 さて、自然科学においては自然という連続したものを観察することによって、合理的な、すなわち連続性を持った推論や判断は可能だとしても、我々の意識が単独で働くときにはどうなのだろう?これは先ほどの錯覚の例とは異なる話題である。錯覚は、外界のものを認識することについての問題だが、推論や判断は、我々の内部で情報を処理することであり、認識とはまた別の話である。
 結論から先に言うと、意識それ自体は連続性を持っていない。しかし、背後として無意識があり、そして我々はそれが連続的であることを知らないのである。
 先ほど言及した、行動経済学者のダン・アリエリーの講演で挙げられた例に、5このようなものがある。ある患者に可能な限りの治療を施し、結果として股関節を人工のものに置換する手術をすることが決定して手続きもほぼ終わった前の日に、あと一つ試していない薬があったと判明したとする。この場合、患者を引き留めて薬を試すか、それとも手術を受けさせるかというアンケートを医者たちを対象として取ってみたところ、ほとんどの医者はその薬を試すと答えたらしい。しかしこれが、試していない薬が二つとなり、そのうちどちらかを選んで患者に試すか、試すならどちらの薬にするか、それとも手術を受けさせるかという風にアンケートを変更して別の医者たちに聞いてみると、なんとほとんどは患者に手術を受けさせると答えたのだそうだ。
 この結果は非常に恐ろしいものがあるが、注目すべきは、どう考えても手術なしで患者を治療できる可能性が高い方の後者のケースで、医者は手術を受けさせると決めたことである。どう考えてもこのケースでは、患者を救うという観点からすれば医者は誤った判断をしている。患者を救うということを念頭においてこの判断がなされたなら、薬が一つから二つに増えるに伴って患者を手術なしで治療できる可能性も大きくなっている以上、医者が患者を救うための判断基準は非常に危うく少なくとも絶対的なものではないと考えざるを得ない。
 もっとも、医者は患者の治療よりももっと別のことを優先してこの決定を下したという見解もあっていいだろう。それならば、この事例はどうだろう。6左右二つのボタンがあり、その上にあるモニターには1,4,6,9のいずれかが表示される。映った数字が5より小さければ左、大きければ右を押すように言われた被験者が、モニターの表示からどのくらいの時間でボタンを押すのかを測る。この実験で、被験者は1か4なら左、6か9なら右を押すことを最初からわかっているはずである。1にしろ4にしろ5より小さいのは同じだし、4の方が1よりも5に近いから判断に迷うということは不合理である。6と9についてもそうだろう。しかし実験してみると、どうやってもモニターに4が出た時は1の時よりも押すのに時間がかかり、6が出た時は9が出た時よりも時間がかかるそうだ。
 これはある意味で連続的と言えば連続的である。1から4,5という値への連続的な変化が反映されている。だがこの結果は先に述べた合理的な考えとは明らかに反している。
 医者の例やボタンを押す時間の例からわかることは、我々の判断基準は意識的なところにあるものとはおそらく違う場所にあるという事実である。薬が一つと二つの時について言うなら、どちらも答えはバラバラではなくてほとんど偏った結果が得られており、強い傾向が決まって示される以上、我々の意識の外の精神活動、つまり無意識にその傾向を作り出す何かがあると考えるべきではないだろうか。数字を見てボタンを押す例ではそれがより顕著である。つまり、1と4なら左、6と9なら右という合理的な基準よりも、数直線的な連続性の方が強く働くという事実をこの実験は示している。
 要するに、我々は自分自身の理性的な判断において、どのような連続性──すなわち、根拠と判断のあいだのつながり──においてその判断を下しているのかよくわかっていないということが多いのである。そして、数字のボタンのように、ある「1と4は5より小さい(根拠)」→「左を押す(判断)」という風に意識で設けた連続性をもってしても、無意識にある連続性の影響を退けられないのだ。
 このような、根拠と判断の連続性を自らの理性によって思った通りにできないという現実を、実は我々は心のどこかではよく知っているのではないだろうか。そして、その事実をできるだけ気にしないように隅に追いやって生きているのではないだろうか。なぜなら、自分自身が連続性を欠いているという事実は、自分が正しくないどころか、自分は存在すらしていないかもしれないという恐ろしい結論を導きかねないからだ。なぜそう言えるのか。そのことについて、これから述べていく。
 
 
 
 
2章 言語が与える連続性と自然な正しさ
 
2.1言語、自然、時間的連続性
 
 そもそも、我々は根拠から正しい判断を下すことについてある程度諦めているところがある。それは、「善は急げ」と「急がば回れ」といった相反する格言が世間でどちらも通じている事実からも察することができる。前者は、よいことが期待できるならば急いで実行せよとの旨を述べており、後者はよいことが期待できる場合でも慌てず慎重に安全な手段をとることを勧めている。
 この両者が一つの判断において同時に成立することはありえない。良いことが期待される場合での一つの判断を下す際、どちらかに従えばどちらかには背くことになる。一方で、我々はおそらく、このどちらかが人生のすべての場で必ず成り立つとはおそらく思っていない。この例と同じように、いわゆる一般論というのはあまり真剣に受け止められてないのではないだろうか。緻密な論理的検討のもとに述べられたものであっても、人生論は多くの場合うさんくさくあてにならないものとして見なされている。それは例えば哲学というものが適当な断定や無意味な理屈のこねまわしとして蔑視されることに象徴されている。
 自然科学のような、自然を観察して得られた成果に対して、生活の中で得られた人生論、道徳訓の類はどうしても信頼のうえで劣ってしまう。(注1)しかし、我々はこの自然という連続した事象の集まりを、どのようにして知るのだろうか。我々自身がここまで非連続的であるのなら、自然を知ること自体が無理なようにも思えてしまう。
 しかし我々は、自然という連続したものがあること自体は知っている。だからこそ、自らの不連続な推論が誤っているとわかるのである。なぜ自然を知ることができるのか。それは、言語によってである。
 言語は連続した論理を人間に教えている。少なくとも、自然科学のような形でそういった論理は存在すると我々は知っている。それが可能なのは、言語によってである。我々が持つ、時間的な連続の感覚は、我々が使う言語に由来するものである。我々が生きている間に流れている時間は我々が死んだ後も流れ続けるし、我々が生きている間に我々の認識していないどこかでもやはり時間は流れておりそこで物事が順番に起こっている。そういったことを当然のごとく我々が知っているのは、言語によってなのである。
 その根拠として、言語によるいわゆる分節という例を挙げることができる。フランス語では、犬を"chien"と呼ぶが、狸も"chien"と呼ぶ。7もちろん日本人はこの二者を区別しているが、フランス人は一般に区別しない。だから、フランス人はこの二つを生活のうえであまり目立って区別しない。この例が曖昧だというなら、虹の例を挙げてもよいだろう。8日本人は虹を七色でできた光景だと思っている。しかし実際には、虹の端から端まではすべてグラデーション的に徐々に色が変化しているのであって、しっかり七色に分かれているわけではない。ただ、言語によって七色に分けて教えられているから七色に分かれて見えているに過ぎないのだ。実際、アフリカのショナ語を話す人々は虹を三色にしか分けない。他にも、英語は六色で分けるし、かつて沖縄では虹は二色のものとして捉えられていた。そもそも七色という分け方も、音階でレから次のレまでに七つの間隔があるからそれにあわせてニュートンが決めてから生まれた認識である。
 このように、分節とはある一群をそれら以外から区別する言語の働きのことを指すのだが、分節によってこそ人は推論することができると言える。なぜなら、論理とはすべて、あるものやある現象が持っている性質によって何かが引き起こされることを想像して作られるものであるからだ。つまり、ある種の性質を持った一群が、言語によって分節されて認識されなければ論理を人間は紡ぎだすことができない。連続的な論理とは、言語によって可能なのである。
 ここで、なぜ著者が、論理が正しい状態のことを合理的と言わずに連続的と呼んでいるのか、疑問に思った方もおられるだろう。この理由は、時間的な連続性に主眼を置いていることにある。
 まず、前提として、正しい論理は現実の因果関係を模したものであるという事実がある。論理が正しいというのはそれが実際に起こるということだし、正しくない論理は実際には起こらない。もちろん、誤った論理で導き出された結果だけがまぐれ当たりすることもあるが、その結論が導かれるまでの論理の過程は一致しない。(注2)想像上の条件で現実にはない状況を想定するにしても、その状況が実際にあった場合に起こりそうな現象を推し量る論理が正しいのである。
 次に、因果関係とは時間の経過とともに起こるものである。あれが起きて次にこれが起きてという順序が時間の経過とともに進行しなければ、因果関係という原因と結果の連鎖は起こらない。そうなると、論理も時間に沿って作られたものであると言ってよいだろう。つまり、連続的な論理を知ることによって、我々は時間を知ったのである。
 これを証明するものとして、言語の様式と因果関係の捉え方が我々と大きく異なるホーピ族の例がある。9彼らの言葉には時制がなく、それどころかホーピ語には我々のいうところの時間に相当する概念を表す言葉がない。彼らは連続的な時間の概念がないため我々と異なった形で因果関係を理解する。
 ホーピ語を研究したウォーフの報告によれば、彼らは時間や空間とかいった観念を持たず、「顕現されている(客観的な)」と、「顕現されていない(主観的な)」という尺度を以って因果関係を捉えているという。我々がいうところの過去と、現在の大部分を区別しないで捉える彼らの言葉には、始動(inceptive)形という動詞の形があり、これが顕現という尺度に対応するものであるという。
 これ以上にホーピ語について詳しくは述べないでおくが、言語がいかに連続的に因果関係を表すかが人間の因果関係の捉え方の由来であるということの有力な証拠の一つがホーピ語であると言って差し支えないだろう。
 さて、言語によって時間的連続性の概念を人間は得ているのだとこれまでに述べてきた。これが一体何を意味するのかを考える前に、そもそもこの種の連続的な感覚が生得的なものであり、言語を習得するまでもなく我々に備わっているかどうかについての議論を済ませておきたい。これまでの主張を翻すようだが、確かにある程度は生得的であるのだろうと思われる。
 実際、連続的に因果関係を追ったりすることがほとんどないであろう鳥であっても、例えばモズが鉄線に虫などを刺しておき時間がたってからこれを食べる「はやにえ」などは、時間的な連続性が一切判断の中になければできないことである(注3)。これはおそらく脳の機能と考えてよいのだろう。人間に特異的な精神活動は基本的に大脳の新皮質によるものだとされているが、これの亜型は哺乳類と鳥類の共通の祖先の段階から存在していたものである。また、サッカードの錯覚など、連続的な認識を作る働きは、脳の進化の中で新皮質よりも古くから存在した部位も関わっているようである。10
 だが一方で、脳の進化と別に、言語も進化してきたという事実もある。ホモ・サピエンスが誕生してから現在の我々に至るまでに起きた脳の進化はあってもほぼない程度のものだが、この間にあった言語の進化はそれに比べて著しい。これは、使用されていくにつれてより便利な形の言語が追い求められていった結果そうなったのであって、決して脳が進化したからそうなったのではない。よって、現代人の脳を持った人間が、言語を与えられて育つのと言語なしに育つのとで、自分の意識が連続的であるという感覚の種類や強さには大きな差が出るであろうことは間違いないだろう。オオカミとともに長年育った少女が人間社会で生活するようになっても言語がほぼ習得できなかったことはよく知られているし、また現代人の脳を持っていても時間的連続性の概念を我々のそれと同じように持たないことがあるのはホーピ族の例からも明らかである。
 
 
 
2.2言語とつながりと実存
 ここまでの議論をいったん整理しよう。認識にしろ推論にしろ、我々の意識は連続したものではない。そして、精神という不連続なものが自然という連続的なものを理解できるのは、言語という手段によってである。我々の持つ連続性の感覚は、言語の連続性に由来するものだ。
 ここで考えたいのは、意識が途切れ途切れであるのならば、意識は同じものであり続けることはないということである。我々は時間がたてば別のことを考え、別のことを思い浮かべ、別のことを思い出し、別のものを認識する。意識の内容は時間の経過とともに入れ替わっていく。連続的な精神的な現象としては記憶などが挙げられるが、そういったもの、たとえば記憶は常に意識の中にあるものではない。必要に応じてその一部を意識に呼び出すだけである。実際、我々は何かを思い出そうとするとき、図書館の書架を眺めながら目当ての資料を探すときのように、記憶の一覧を参照して必要な記憶を探し出すのではない。思い出すという行為の前では必要な記憶は意識の中になく、それがどんな形であるのかの情報は意識には無い。その他にも、思いつくとかいった現象にもこの原則は当てはまる。
 しかし、我々は通常、我々という存在はずっと自分という同じひとつのものであると信じて生きている。なぜそのような発想を持ってしまうのか。言い換えれば、なぜ我々は、自分自身の存在が時間的に連続であるという感覚を持ってしまうのか。先ほど述べたように、記憶などは連続的であるのだが、それはいわば無意識の中にある情報である。それらが意識の中に連続してありつづけることはない。つまり、我々自身が連続であると述べるならば、ちょうど科学者が自然というものに寄りかかって推論し自らの主張を自然を根拠にして証明するように、無意識という連続的なものに寄りかかって自分自身の証明を無意識を根拠にして証明しなくてはならない。だが、我々が自覚している我々自身とは、無意識を含むものなのであるのだろうか?
 このことについては非常に慎重な議論を要するところかもしれないが、少なくとも我々が我々であるという感覚は意識に与えられたものである以上、意識は何がしかの意味で事実に反する認識を持っていると述べることはある程度は妥当であると思われる。この、何かを思ったり感じたり意志を発動させたりする我々というのは同じものであり続けることは無い。それは、ある一つの機械の部品が一部だけ取り替えられたとかいった程度の変化ではなく、もっと根本的な変わり方、例えばある立場とか役職にいる人間が違う人間に代わったとかいうのと同じ変化なのである。それがもし我々自身の実感に反するなら、このような発想が前提としてあるからだろう。すなわち、「我々は存在している」というものである。
 そもそも存在しているとはどのようなことを言うのだろう?これについても、完全にわかってしまうことを理解するなら、非常に慎重で長大な検討を必要とするのだろうし、事実そのような議論は哲学史上において長きに渡り続いてきた。だが、ここではあくまで、意識が存在するものではないことを述べることが主題であるので、存在するもののある決定的な特徴に話題を絞って検討したい。
 その特徴とは、数え切れない性質を持つということである(注4)。例えば、そのあたりに転がっている石にしても、表面が何色だとかどのくらいの重さを含んでいるとかどのような形をしているとかいった性質を持っており、そのすべてを列挙しようとしても、やろうと思えばいくらでも次から次へと新たに述べていくことができる。それらはすべて言語で説明可能なものであるのだろうが、しかしすべてを説明しきることはできない。このように、存在するものとはすべて無限の情報を持っている。
 これに対して、我々の精神はおそらく有限個の情報、有限個の観念から成り立っている。人の精神は脳神経、もしくは身体に存在するすべての神経から成り立っていると考えるのがおそらく妥当だろうし、それらの組織はすべて有限個の細胞でできている。そしてその活動によって精神が成り立っている。となると、精神を作る情報が有限個の細胞の有限回の──言い換えるなら、特定の回数の──活動に由来する以上、この精神を作る情報も有限個であるといって差し支えないだろう。となれば、無意識であれ意識であれ有限個の情報から成り立っているのだから、その一部から成る我々というものも有限個の情報によるものである。
 となれば、我々の精神は実際に存在するものではない。少なくとも、精神とそれ以外のものは存在するという点においてまったく異なると言わざるを得ない。それでも我々が、自分自身を存在するものとして感じてしまうのは何故なのか。それはおそらく、我々が存在するものを認識する原理にある。
 そもそも、我々の精神が有限個であるなら、存在しているものが存在していること自体を認識することは不可能なはずである。存在とは無数の情報を持っていることであるのだから、それをそのまま引き写した認識を持つことは不可能であろう。だが我々はものが存在しているという感覚をおそらく持っている。自分自身についてもそうだし、身の回りのものについても、それが徹底的に破壊されたり完全に消滅してしまったりしない限りは、それがずっと存在し続ける、という時間的連続性を伴う現象を想像する。なぜこのようなことが可能なのかはっきりと理解することは難しいが、あまりにも多くの性質を持ったものを前にしたとき、それを存在しているものであるとみなす仕組みが働く場合があるであろうことは間違いないだろう。
 このような、無数の性質を持つ存在しているもののことを「実存」というなら、人間は自分の外にあるものを実存とみなす一方で、自分自身の中にある大量の情報も実存であるとみなしているのであると考えられる。数え切れないほど多くの情報と、実際に数えきることのできない無数の情報を、数える側は区別することができない。だから、人間は自分自身が実存であると誤認しているのである。この際の認識の対象が、意識だけでなく無意識の一部、例えば思い出したり思いつこうとしたりする現象も含んでいるのかは定かではないが、いずれにせよ有限個の情報であることは確かである。
 こういった認識の原理が、時間的に不連続であり同じものとして存在し続けているわけでもない我々自身を、実存であるかのように見せている。そしてさらに、自分自身が一個の主体として、今日も明日もその先も生きている限りは一つの存在としてあり続けるとでも言うかのような自己認識すらもある。これは、意識の内容が入れ替わり続けているという事実に反するものである。サッカードの例で視線を動かしている間の時間を今見えている時計の秒針の姿で埋めてつなげているのと同じように、時間が経過とともに違うものとしてその時その時である自分の意識を、次から次へとそれ以前の自分につなぎ合わせているのである。いわば、時間的な連続性を作り上げる機能と、有限個の情報を存在という単一的全体として捉える機能が、我々を一個の実在する主体であるかのように自己認識させているのだ。
 類似した内容を繰り返すことになるが、いったんこのあたりの議論を要約しておく。存在しているものがその数えきれない無数の性質によってさまざまな現象を起こし得て実際そのように現象を起こしているのと同じように、我々という意識の主体は存在するものでありそれが思考や判断や行動をしているものだと捉えている。しかし実際、意識は存在するものではなく、無数の性質を持つものでなくて有限個の情報の集合でしかないのだ。しかもその情報の集合も、時間の経過とともにおそらく変化していく以上、どう考えても我々は「連続的な時間の中で時間存在する主体」などとは程遠い何かであるということになってしまう。同じものが動いている時と止まっているときでは違うように認識されても本来は同じものであったのとは異なり、我々自身は違うものの集合体なのである。それが、一つの身体という、実際に存在するものの中に備わっているだけのことである。精神の単一的全体という別個のものの集まりが実存として自らを感覚しそれゆえ身体という実際の存在に自らを重ねていられるが、それは決して絶対的で必然的なものではない。言うならば、身体というのは、精神が実存であるということに疑いを向けられないための言い訳として結果的に作用している。
 こうして、自分は同じ実存として自分であり続けるという発想が、言語に由来したつなげる感覚によってもたらさえている。自然の連続的な因果関係を把握する能力と、自分が自分であるという発想の二つが、言語によって励起されたつなげる感覚によってもたらされたことを述べた。そしてさらに、つなげる感覚がもたらしたもう一つの重要なものについてここから述べる。それは、常識である。
 
 
 
2.3言語と常識
 わざわざ断るまでもなく、言語は他人によって教えられるものである。他人と話して意味の通じる言葉を喋ることができるのは、自分で作った言語でなく世間で使われている言語を、直接的にしろ間接的にしろ他人から教わったからである。そして、自然で起こることは他人から教えてもらった言語によって理解する。ここでいったん、このことについては断っておくが、自然の連続的な因果関係を理解できるようになるということは、日常で起こっている因果関係もある程度は補足できるようになることを意味する。別に自然科学の分野に該当することについてでなくても、我々は日常的に、あれがこうなったからこうなるとかこういう原因でああなったとかいった因果関係を理解したり推測したりしている。この種の因果関係にまつわる能力を、言語なしに一部の動物は獲得しているし、必ずしもこれに言語が必要であると言い切ることはできない。この点については神経心理学など様々な分野で未だに議論が続いているところもあるので、この種の能力の獲得にどの程度言語が寄与しているかについては断言するのを避けるが、ただし、我々が他人から因果関係を教えられるのはおおよそ言語によってであることは確かである。またあまりに過程の長い推論であれば言語やその他の数学的な記号などを用いずに整理し把握することは極めて困難であり、基本的に因果関係の把握や論理による再現の教授は言語によって行われると言って間違いないだろう。
 この結果、我々の精神の中で、ある尺度が強い説得力をもつことになる。それは、常識と、客観的な正しさという尺度である。字義通りに解釈するなら、自分と立場の異なる他人が見て正しいと思うことが客観的な正しさだが、客観的な正しさを求めるには、他人はどのような論理が正しいと思っているのかを尺度にするため自分の経験を参照することになる。つまり、他人から学んだ論理を必然的に真似ることになるわけだ。そうなると、他人のものの考え方とか、他人が正しいと思うことを客観的に正しいことであるとして、本来絶対的な説得力や正当性などない社会通念などを正しいものとして身に着けてしまうことになる。これが、いわゆる常識である。
 ここまでの考えは、特段目新しいものではない。問題は、これが言語の獲得と同時的であり、それゆえ他の二つの現象、すなわち自然の因果関係や自分が自分であるという感覚と結びやすいことにある。
 自分がそのような存在としてあり続けるということは、そのような存在以外の仕方、つまり生き方を自分のものとしては認めないということである。この、「そのような」の部分に、「常識的で、自然科学のように正しい」という語句が代入されることが問題なのである。特にそれは、常識が誤ったものであったり、不都合なものであったりする場合に問題として際立つ。
 そのような事態が実際に自分に起きているとして、自覚することは非常に難しいことである。常識が常識たるゆえんは、それを間違っているとして訂正されるような機会が非常に少なくそれゆえ強固なものとして社会に残っているわけである。簡単に正しくないように見えるものはおそらく常識にはならない。だがやはり、実際このような事態は起こっている。すなわち、「自分は自分でこのような人間としてあり続けているしそのあり方は常識的に正しく、科学的な理屈と同じくらい妥当である」というような感覚や発想が言語の習得とともに身についてしまうという事態である。ホーピ族の例で、因果関係の把握の仕方が言語の形式に由来しているためその両者が一致していることをみたが、この常識の感覚についても同じことが起こっている。その最も顕著な例が、エクリチュールという現象である。
 現代思想の用語としての「エクリチュール」という語の用いられ方はさまざまであり、誰の思想について解説するかによって意味が大幅に異なることもある。ここでは、ロラン・バルトの言うエクリチュールを取り上げる。
 エクリチュールとは言葉遣いの一種である。と言っても、個人的な言葉の使い方の好みはエクリチュールとは言わず、スティルと呼んでバルトは区別している。ではエクリチュールとは何かというと、社会的な立場などから要請されていつの間にかそのような言葉遣いをしているというようなものを指す。役人が公の場で話す言葉遣いは個人的な友人づきあいのものとは異なっているし、教師が生徒の前で話す言葉遣いはその教師が学生時代に教わった教師と再会した時のそれともやはり異なっている。この例えがわかりにくいなら、内田樹が『寝ながら学べる構造主義』で挙げた少年のたとえがわかりやすいだろう。11一人称を「ぼく」から「おれ」にした少年は、「おれ」に似合わない振る舞いをしなくなる。「熊ちゃんのパジャマ」のようなものを着て寝るわけにはいかないのである。これの言葉遣いにあたるものがエクリチュールと言える。
 実際に常識としてのエクリチュールのはたらきが際立つ例としても、内田が『町場の文体論』で挙げた、フランスでの出来事がわかりやすい。12フランスはかなり明確に序列化された階級社会が作られており、エクリチュールの内田がフランスに学生を連れて行った際、美術館のフリーパスを地下鉄の駅で買おうとした。だが、行く先々の駅員が、この駅では売っていないが別のあの駅なら売っているという具合の答えをそれぞれ言うので、内田はたらい回しにされたあげくルーブル美術館で聞いてみると、その地下鉄の会社が発売していたパスは前の年に発売停止になっていたという。
 このことから、低い階級にある人々──おそらく、地下鉄の窓口で働く人々がその例なのだろう──は、自分が知らないことを知らないと認め、他人に尋ねるような言葉が、その階級特有のエクリチュールにないため、新しいことを知ることができないのだと述べている。そしてその結果、学ぶ機会が自動的に失われるため、その人たちの階級が上昇することはなく階級が固定されるのだという。フランスの低い階級で、他の人に知らないことを聞くのは恥であり、そのような感覚が言葉遣いに対応しているというのなら、これもまた、因果関係の把握の仕方と言語の形式の対応のように、常識が言語の形式に対応しているという一つの証拠である。
 
 
 
 
3章 つながりとともに生きる
 
3.1自然な正しさの是非
 
 ここまでで、言語の習得と同時に身に付く三つの感覚、すなわち自然の連続的な因果関係を理解する感覚、自分が他のものと同じく実際に存在する一つのものでありそしてその一つであり続けるという感覚、そして常識が客観的に正しいという感覚について述べてきた。この三つは同時的であるがゆえ強固に結びつきあっており、どれか一つが否定されることは他のものも否定されるかのような不安や恐怖を呼びさます。しかしその結びつきは、たまたまそうなっているだけであって決して合理的な必然性があるわけではない。言うならば、人間がものごとを学習する過程において偶然これらが同時的であったというだけであって、これらは本質的には類似した尺度ではないのである。
 この不合理な結びつきの結果もたらされた、誤った発想を「自然な正しさ」と呼ぶ。後でも述べるが、これは文学や哲学にとって克服すべきものの一つである。
 哲学や文学が社会に対して持つプラスの効力の一つに、この自然な正しさを相対化して弱めるというものがある。自然な正しさを作る不当な結びつきが個人の生き方において不合理な影響を与えているのならば、可能な限り相対化してその影響力を失わせるべきであるだろう。
 卑近な例で言えば、社会の常識の価値観で肯定されておりなおかつ数字という自然科学で用いられる尺度により評価されるという意味で、「自然な正しさ」の恩恵を受けて不合理な説得力を持っているものに、財産すなわち金や学業での成績が挙げられるのではないだろうか。それぞれの個人が自分の人生に満足していればそれで済む話なのに、他人と自分の人生の充実の度合いを比較する尺度としてこの二つが異様に高い頻度で持ち出されるのは周知の通りである。場合によっては、自分と関係ない人間の人生を否定し自らの自尊心を満たすために自分がこの二者のどちらかにおいて高い水準にあることを誇示する者もいる。筆者も個人的に、過去に受けた模試での高い点数を自慢し、その数字が示す通り自分は賢明な存在であり続けているとでも言わんばかりの態度を臆面もなく取る人間を何人か知っている。そのような卑怯な態度は即刻改めるべきなのだが、自然な正しさという強力な説得力によって自分を正当化する彼らは筆者の言葉など意に介さないのはわかっているので、そのままにしている。
 繰り返すが、決して自然科学が誤っているなどと言うつもりはないし、また常識的な判断がそれなりの頻度で正しいのも確かだが、それらが上に述べたような特定の結びつき方をすると、「自分は自分でこのような人間としてあり続けているしそのあり方は常識的に正しく、科学的な理屈と同じくらい妥当である」という非常に傲慢で誤った発想を生じさせるのである。とはいえ、これが本当にあらゆる意味で害しかもたらさないので徹底的に排除すべきだというように急進的な主張をするのも危険である。常識を守ろうとする内的な強制力が個人の心理に存在しなければ、世間は非常に無秩序で治安のない状況に陥るだろう。あまりに神経質に自然な正しさを志向するとそれこそ神経症にでもなりかねないが、まったく持たないというのも問題なのかもしれない。
 実際、常識というものが、言語とともに三つの感覚の一つとして同時的に習得されなかった場合、おそらく人は他人との関係がうまくいかないことからから心を病んでしまうのではないだろうか。そしてその例こそが、統合失調症(旧称:精神分裂病)ではないだろうか。
 筆者は精神医学の専門家でもなければ臨床の場に立ったことがあるわけでもないのであまり断定的には述べられないのだが、ただ、統合失調症の患者の症例やそれについての言説は、この自然な正しさというものによって作られた社会に参画できないゆえのものだと捉えると非常に納得がいくものが一部にある。
 極端に物事を合理化するという統合失調症の患者の思考や行動によく見られるという行動パターンは、13常識による論理を自分にとって自然に正しいものとして患者は身に着けられなかったため、正常人にとっては彼らの合理性が異常に思えるのではないかとも考えられる。
 あるいは、R.D.レインの著書『引きさかれた自己』の冒頭にある次の文言は、自然という外界を常識に結び付けて捉える普通人の感覚を他者と共有できない、統合失調症的な気質を持つ者の孤独に思いを馳せたものではないだろうか。少し長くなるが、引用する。14
 
精神分裂病質者(スキゾイド)(schizoid)というのは、その人の体験の全体が、主として次のような二つの仕方で裂けている人間のことである。つまり第一に世界との間に断層が、第二に自分自身との間に亀裂が生じているのである。このような人間は、他者と〈ともに(ツゲザー)〉ある存在として生きることができないし、世界の中で〈くつろぐ(アト・ホーム・イン)〉こともできない。それどころか、絶望的な孤独と孤立の中で自分を体験する。その上、自分自身を一人の完全な人間としてではなく、様々な仕方で〈分裂(スプリット)〉したものとして体験する。たとえば身体との結びつきが多少ともゆるくなった精神として、あるいはまた二つ以上の自分として──等々。」(注5)
 
 
 
3.2自然な正しさの影響力を縮小させる試み
 
 このようにして、我々が連続的な自己像を持っている一方で、諸行無常とでもいうべき現実があることはある種の悲劇であるともいえる。あるいは、本来的には非連続的な我々の自己が、言語とそれがもたらす自然な正しさという規範によって、時間をまたいで無理矢理につなぎとめられること、すなわち自分は同じ考えを持ち続け、同じ存在であるように努めることが美徳であるとでもいうかのような考えが我々を縛っていること、これはある種の摩擦的な苦痛をもたらしているのではないだろうか。自然な正しさという半ば呪いじみた鎖が、我々を苦しませ、しかもそれによって苦しむことが正しい生き方であるかのような規範意識があるのではないだろうか。
 これに対抗する一つの対抗手段は、理性、あるいは意志や意識全般に対して我々が抱いている自尊心や自負、自信といったものを意図的に減ずることである。理性とは、論理的に物事を考える意識のはたらきのことであり、連続性を自らの行動などの中に作ろうとするはたらきである。理性で衝動を抑えるとかいったはたらきも、衝動に任せるとよくないことが起きるという判断の根拠(原因)に、自分の態度や行動を連続させようとするはたらきであると言える。
 しかし、衝動を抑えるとかいった社会生活に不可欠なものはともかく、その他の場面において我々はどう頑張っても合理的には行動できないことも多く、そればかりか、合理的になるために必須の手段として与えられたものが我々の理性の判断を不合理なものにしてしまう場合もある。
 やはり数値にまつわる心理学の実験で、次のようなものがある。15二つの数字が左右に表示され、大きい方を選択するように被験者は命じられる。欧米でこの実験をすると、右側が大きい方が反応速度が速くなる。この理由は、我々日本人もそうだが、数直線が右に向かって大きくなるものとして教えられているからである。実際、数直線の向きが左に向かう地域で育った人は左の方が速く、そういった人たちの中でも欧米への留学期間が長いほど左右の差は小さくなっていくのだという。
 この他、行動経済学認知科学に関するエピソードは、人間の理性の働きが明らかに不合理である例をいくつも紹介してくれるし、もしくは、不合理であることが結果的にはよいことをもたらす場合すらもあるのだと教えてくれる。(注6)
 これらのことを踏まえ、我々は自然な正しさが大して正しいものではないと強く自覚し、自然な正しさが世間をはばかりながら保持する説得力を幾分かは減ずるべきである。でなければ、自分の不完全な理性によって意図したことや作り出した意味といったものが、ずっと続くのでなくいつかは失われてしまうことのいちいちにいら立ちや焦り、そして悲しみを覚え、それらを心の本質的なところに置き続けることになる。
 
 
 
3.3哲学と文学、人文の未来
 
 とはいっても、我々が連続性という感覚を早急に適切に作り直すことははっきり言って不可能である。なにしろ、日常的に使用している言語がこれを補強するものである以上、言語というものを抜本的に作り直すとか、そうでなくても習慣的に述べられている言語の文法や特徴をすべて洗いざらい見直して、適切に組み立て直す必要がある。しかしそれはあまりに非現実的な展望である。また、先にも述べたとおり、自然な正しさが感覚として共有されることで、社会の秩序や治安が保たれるという側面や、心の病の発症を防いでいるという側面もある。また、ものごとをつなげる脳の機能を任意にオンにしたりオフにしたりすることも現実的には不可能である。となれば、我々は、自分たちは連続的な存在であるという非合理で事実に反する感覚と付き合って生きていくことを考えなくてはならない。
 その上で有効なものが、哲学と文学ではないだろうか。哲学というものが人間の不十分な理性のはたらきの産物であるとは先ほど述べてはいるが、しかし、行動経済学神経心理学認知科学の知見だけでは、生活上の実際的な問題のうえでどのようにすればいいのかは結局わからない。人間はどのように誤るのかを知ったとしても、ではどうすれば自分にとって最も望ましい生き方ができるのかを、これらの科学は教えてくれない。
 例えば、将来の進路を決めるときにどうすればよいのかの答えを、これらの科学だけでは導き出すことはできない。実際、この文章も、そういった科学から得られた知見の具体的な報告以上のことをしている。それを踏まえて、将来の進路を考えるときのことを想像してみると、安定的に収入が得られる職業に着くのが常識的に考えて無難だとかいう風に考えることは世間で一般的な発想であるようだが、このような場合において熟考する際に哲学が有効であるということはこれまでの議論からわかるはずだ。少なくとも、自然な正しさという感覚によって正当性を不当に与えられた常識という社会通念に安易に従わないようにすべきではないだろうか。
 しかし、これらも結局は科学的手法に基づいて確かめるべきことであり結局は科学ではないのかという意見もあるだろう。科学的手法に基づいて確かめることが有益であるという点については賛成できるが、結局やることがすべて科学であるという点については賛同しかねる。
 まず、これまでに述べてきた説のほとんどは、基本的には哲学や現代思想といった分野に由来するものである。実存だとかエクリチュールだとかいった概念は、この分野でさんざん話題になったものであり、またこの文章における推論は基本的に精神病理のそれに倣っているところが多いが、これもまた哲学や現代思想からいくつもの重要な概念を取り入れているし、それらの重大な影響下にあるものである。なお、この文章における推論が意識特有の不連続なものとならないように、なるべく多くの具体例をていねいに参照するよう心掛けた。それでも納得がいかないなら、いくらでも神経心理学なりなんなりの実験で確かめていただければと思う。それができなければ、読んだ方が自身の生活の中で他者を観察して確かめていただければいい。
 話を戻すが、哲学的な推論はやはり人間洞察の発想の源である。つまり、科学的手法によって人間の性質を研究するにしろ、そのアイディアを考えるのは結局研究者という人間であり、そしてその考えは研究者の人間観や対人関係での経験といったところに由来するものである。つまり、その研究者が持つ哲学に由来すると言っていいだろう。その意味では、人間観の幅を広げることにおいて、少なくとも常識に囚われない発想をもたらすためには、哲学は有用なものであるのではないだろうか。科学的手法のもとに直接示されたことを超えて、人間の精神がどのようであるかを洞察するのが、いわゆる人文知というものである。神経心理学が発達して、人間の心理と神経細胞の活動を完全に対応させてして理解されることが仮に未来であったとしても、それは遠い未来のことである。そしてそこに向かって進歩していく手段の一つは哲学であるだろう。とはいえ、この回答は哲学のもつ可能性のうちでも、あまり本質的なものではないだろう。筆者にとって元々哲学という分野が非本質的であるゆえこの程度の拙い回答となっているが、そもそもこの文章は哲学のために構想されたものではない。
 筆者にとっての本分は物語であり、もしくは小説、文学である。ゆえに、筆者にとっての哲学とは、物語や小説、文学を追及するための個人的な探求である。
 我々にとって、外界としての自然でなく、本来的であるという意味での自然は、決して外界のものとは一致しない。錯覚について言及した箇所で述べたとおり、我々は物が存在しているそのままの形で物を認識しているわけではない。我々にとっての自然なつながりとは、外界のそれとも、常識のそれとも異なるものである。それが一体本来どのような形であるのかを探求することが、文学がすべきことの一つではないだろうか。「三月の終わりに桜が満開に咲いた。Aが産まれたのはちょうどそのころだった」という文章が小説の中にあるとして、これを読んだとき、読者はおそらく桜が咲くことの爽やかさとかいったものをAの誕生に結び付けて考えるだろう。だがそこに論理的な必然性はない。人間は、表面的には特に理由が見当たらなくても、近傍のもの同士につながりを見出すのである。だが、その感性は、自然科学が示した現実の因果関係や、常識という強制された社会通念、あるいは自分自身が連続した存在であるという感覚などによって本来の姿よりも狭められてしまった状態でいる。だから、文学という現実に反した架空のことが許される場所において、それらの限定しようとするもの──例えば自然な正しさのようなもの──とは相容れないつながり、それでいて人間にとって本来的な、秘められた人間の姿をあばきだしてくれるようなつながりを見たいのである。そのためには、客観的な正しさとして与えられた、常識をはじめとする社会通念などといった制約するものを自分からこそげ取って、それらに縛られないで新たなつながりを見つけなければいけない。哲学はそのためにこそ有用である。一見無秩序な言葉の連なりや出来事の連なりが、実は人間にとっては自然なものであるかもしれない。それらはおそらく、限定されることに疲弊した者へ、家や故郷のように安らげる原風景を、自由を感じさせてくれるある何かを体験させてくれるだろう。
 人文の「文」、文系の「文」、この文という字が示すものは、言葉の連なり、現象すなわちできごとの連なりである。そして人間は、その連なりのあいだにつながりを見出す。そのつながりこそが、もっとも本質的な人間の原理である。つながりは時に人を苦しめ、また時には人に安息を与える。それらを必要に応じて相対化し、つながりの様々がどのようなものであるのかを知り、そして人間の姿を知ることこそが、人文、文学が拓くことのできる展望ではないだろうか。
 
 
 
 
 
 ここまで述べたことを平易な表現で言い換えるなら、人は自然に、つまり普通にしていれば、正しい理屈の通った言葉で話せるし、その通りに行動するのがやはり普通である、という通俗的な考え方がまったく間違っているということになる。行動経済学のエピソードを持ち出したのは、普通にしていた結果まったく理屈に合わない行動を人間はしてしまうものだという感覚を持って欲しかったからである。世界全体で起こっていることが因果関係に基づく以上、正しく理屈を考えて述べられるなら人間はすべてを理解することができ何だって思いのままにできるだろうが、そのような理想的な理性は実際の人間の姿からは程遠いのだ。普通にしていれば正しいという考え方、つまり常識や通俗的な良心に従っていれば正しくいられるという考え方は、人間の理性は神に祝福されたこの世で最上のものであるという何百年も前の、あるいはさらにそれよりも昔にあった迷妄と似たようなものだ。温故知新、故きを温ねて新しきを知るとは言うが、先人と同じ過ちを我々も犯しているという意味ではこれはその例なのかもしれない。
 
 
 第一部は以上である。ここまでの内容を要約したものは序に一度述べてあるので、またここで繰り返すことはしない。結論だけを端的に述べずここまで長く書いた理由は、単なる説得性だけの問題ではなく、ここに書いたさまざまな出来事と同じことが自分の心の中でも起こっているのだと、読む人が自分の生活を振り返って共感してくれることを狙ったためである。この文章はある妥当な主張を述べるために書かれたのではなく、そうやって共感していただくことを目的としたものだ。筆者の個人的な孤独や寂しさとかいったものを解消するためではなく、そのような考えを持った人が世の中で生きてほしいと思ったためである。
 さて、この箇所では、今までに述べなかったあることについて強く言及しておこうと思う。それは、誰もが当たり前のように持ち備えている自然な正しさという感覚は、ある発想をもたらすという事実である。それは、言葉にできないものは存在していないという発想である。もしくは、言葉にできないことなど、人の精神の中にはないという発想である。
 おおよそ誰もがその考えに従って生きている一方で、言葉にし損じていた大量の何かどもがやはり現実にはあるのだと誰もが知っているし、また何より、自分の意志では言葉にしていないしすることもできない何かが我々の心の中にあるとも知っている。しかし前者のことはともかく、後者については、触れてはいけない禁忌のような扱いを受けている。我々は意志や意識の外にあるものがどんなものなのかは自分自身ではほぼ確かめ得ないし、またそれらがどんな形をしているのかは自然科学が発達した現代でもほとんどが明らかになっていない。無意識にあるものも我々が普段使う言葉の形をしているという学説もあれば、そうではないという学説もあるようだ。いずれにせよ、そのような、意識の言語化の射程内に入っていないたくさんの、「それ」とでも言うべき何かどもが、我々に与えられた自然な正しさという発想が扱える対象とはなっていない、いやむしろ「その何かども」があるという事実そのものが自然な正しさを直接に否定しているというのは確かである。
 だから、いかに無意識のことを文献なり講義なりで勉強したとしても、言語とともに教え込まれた連続性を信じ込んでいるうちは、無意識なんてないものとして生きているも同然なのだろう。自然な正しさのもとに生きるうちは、意識が言葉にできないものごとはすべて「無い」のであって、人間の理性や、ともすれば感覚は、何をも理解したり扱ったり洞察したりするのに充分だということになってしまう。
 だがおそらく、生きていれば誰もが、そのような考えはどこかで誤っていると薄々気づかざるを得なくなる。おかしいと気づき始める。だからこそ、彼らはものごとが言葉でうまく表現されることを喜ぶ。現実の世界においてそれをあまり好まない人であっても、創作物などの娯楽においては、登場人物の秘められた内面が次々と流暢なつながりで語られていくのに喜びを覚えたりするものである。つまり、彼らは言葉の前では愚鈍である。
 言葉を述べる以外において拙いような人間が何食わぬ顔で生きていられるのも実はこのような事情によるところがある。ひょっとするとこの文章だってそのひとつの例かもしれない。しかし筆者は言いたい。言葉の前で愚鈍になってはいけない。あまりに流麗で、よどみなく、なめらかな言葉の連続、饒舌な理屈に対しては厳しい審議を試みるべきである。そのような言葉は実は直接語っていることの内容とは別の何かを示唆していることは珍しくない。つまり例えば、そのようないたずらに冗長な言葉に頼らなければ自分の行為の正当性も心の支えも得られない話者の弱さなどが露わになっていることがしばしばなのである。
 創作物のそのような言葉や理屈に人は心酔させられることがあるかもしれないが、また一方でそのような言葉は現実において不条理や不幸、あるいは権力の偏りと占有を起こしている。この二者は、美と醜の対極にあるように見えて、実は同じ原理で生じていることである。どちらも、人間が言葉の前で愚鈍であるということや、自然な正しさとそれを支える連続性を信じなければいけないと多くの人が思っていることが原因で生じているのである。
 実際の人間が取る一見誠実そうな態度が、言語の連続性に翻弄される人間の生きざまにつけこんでいるのではないかと何度も考えてみてほしい。それを悟っているか否かで、人というものがまったく違って見えてしまうはずである。格調高いということと、尊大にひけらかすことはまったく違うことであるということもまた大事である。この二者は確かに同じような場所に由来を持つことは多いかもしれないが、だからといって混同してはいけないし、前者は良いもので後者は悪であるとよく区別を付けなければならない。
 自分の内面に、それまで見つかっていなかった内面の動きがあることを見出して、それを言葉で表したからといってそれだけで救われた気になってしまうことは時折危険が伴う。精神医学における精神分析の有効性を否定するつもりはないが、それだけで患者が救われるわけではない。先に書いたように、人間は自然な正しさを教え込まれているゆえに言葉の前では愚鈍で、特にそれまで言葉にされていなかったことが言葉になった時はそれが際立つのだということを踏まえておかなければ、そして連続的な言葉で何かが露わになった時人は過剰に喜んでしまうものだという慎みを持っておかなくては、ひたすら自分の内面を掘り返すことで見つけたことや自分の周りで起こっていることから無理矢理言葉を抽出したりして、いたずらに局所的な目ざとさを煽り立てるだけである。そういった言葉の営みが現実的な効力を失っていくうちに、この営みが加速する中で、人生とは結局無意味なのだという命題が現れ、営みの活発さとともにそれは頭の中で意識に訴えかけるようになるが、それを更なる言葉の営みによって埋め立てるようにごまかそうとする恐ろしい循環が始まってしまうのである。本当に心の底から不幸になっているわけでもないのに、ひたすら不幸の渦が意識の中で加速していくのである。
 決して誰もがそう極端な事態に陥るわけではないのだろう。だが、自然な正しさという恣意的極まりない教えへの盲信は、人生とは実は意味も価値もないものではないだろうかといった頓珍漢な疑いをもたらしたり、薄暗い不幸の影を世の中に落としているのではないかという風に筆者は考えている。そしてその種の、誤った認識に基づく不安や鬱屈は、時として狂気的な事態を引き起こす。それが具体的に何であるか言う必要はないように思う。むしろ、生活にあふれるいびつな形のものどものいちいち、人間関係でのことやさまざまな消費物などにしっかりと冷静な目を向ければ、この類の狂気が社会の隅々にまではびこっていることは明らかではないだろうか。そして、だからこそ、自然な正しさの根幹となっている連続性とは大幅に異なる、相対化によってこれの不当な効力を減退させるような連続性を、物語や文学が追及することに価値があるのではないだろうか。
 
 
(注1)これは、連続性の欠如というよりも、想定していない事態が現実には起こるため、我々が推測した内容が実際には成り立たないことによることの方が大きいのではないかとも考えられる。とはいえ、自然が我々の精神と異なり完全な連続性を持っていて、それが我々の意識とは本質的に異なるものであるのは間違いないので、議論を進めている。
 
(注2)養老孟司氏の著作唯脳論』にも引用された寓話として、落語にこんな話がある。人間は息を吐いて前に倒れるのを防ぎ、吸うことで後ろに倒れることを防ぐことでバランスを保って立っているのだと思った男が、実際に息を止め続けてみた。果たして男は倒れてしまったが、男が倒れた理由は酸欠であって息によるバランスが失われたからではない。
 
 
(注3)連続的な推論や判断は鳥もしているし、もちろん人間もしているが、この事実は決してこの部分よりも前での議論を無効とするものではない。あくまで、判断という連続的な過程のすべてが意識の中にあるわけではないということ、つまり意識は判断の連続性のすべてを意のままにしているわけではないということをこれより前の部分では述べている。意識という、我々が我々自身であると自認している領域では、自分が為している根拠から判断までの過程を欠いていることがそれなりにあるということが論点であり、連続的な推論や判断をできないのだと主張しているわけではないことが重要な点である。
 
 
(注4.1)ここで「数え切れない」という表現を用いたのは、「無限の」という表現では「どのような性質でも持つことが可能である」という意味で誤解されかねないからである。例に挙げた石について言っても、石はよほど特殊な条件でなければ空に浮かぶことはできないし爆発したりすることもできないし、ましてや光合成したり自ら光を発したりすることはほぼない。無限という言い回しはこのような事態をも想像させてしまいかねない。また、話の筋とは直接関係ないが、人間は自分の精神が自由でどんなものでも想像することはできると思いがちである。そのため、人間の精神の可能性について「無限の」という表現で形容することは非常に危険な誤解を招く。これも正しくは「数え切れない」と表現するべきだろう。「数え切れない」や「無数の」と「無限の」の違いをわかりやすく説明するなら、0と1の間には0.1や0.327や12/787など数え切れない、すなわち無数の値があるが、たかだか0と1の間に限定されてしまう値を無限だと言ってしまうことには語弊がある。ダン・アリエリーがTEDでの公演「我々は本当に自分で決めているのか?」で強調したとおり、我々は精神の持つ能力の限界を自覚するべきである。
 
(注4.2)この後しばらく続く議論は、ある脆弱さを抱えている。それは、実際に存在するものは「無数の性質を持つ」以外にもこれとは根本的に異なる特徴を持っているか、もしくは「苦数の性質を持つ」ことによってそれとはまったくかけ離れた別の事態を引き起こしている可能性をとりあえず無視していることである。もし、人間が実際に存在するものを認識する際に、こういった何か別の特徴などによってそれを実際に存在するものだとみなしているならば、これ以降の議論は一部成り立たなくなる可能性がある。ただし、実際に存在しているものは無数の性質を持っているということ、および、人間は数えきれないものと数えきれるが多すぎて把握不可能なものの二者を区別できないということはとりあえず事実である。また、実存という言葉はしばしば理性を超えた何かのようなものとして扱われるが、言葉や論理といったものを十全に使いこなす理想的な理性があったとして、それと人間の持つ理性がおそらくかけ離れているであろうことを看過するべきではない。すべてのものごとには原因があるというのなら、起きている現象はすべて言葉と論理で説明ができるだろうが、人間にそれができるかどうかはまた別の話である。つまり、言葉や論理とかいったものと本質的に同じような種類のものであっても、人間は自分が持つ理性の不十分さゆえそれを実存だと日常的にみなしている現実的な事情を想像するのは難しくないだろうということである。それは、行動経済学の成果の数々からも明らかだろう。
 
(注5) 統合失調症に関する記述を読んでいると、「私は当たり前に正しいことをやろうとしているだけなのに、どうして他の人はわかってくれないんだろう、もしかすると正しいことをする私の行動や考えは都合がよくないから、他とは違う私を悪意的にこの世から排除しようとしているんじゃないか」という患者の不安感、孤独感が伝わってくるように思うときがある。あくまで専門家でない人間の個人的感触に過ぎないので、本文の論理展開には含めずこのように注にしてある。
 
(注6)
 一応、ひとつ具体例を引用しておく。16五個のおはじきを並べた列を子供に見せて、同じようにもう一列作るように指示する。多くの子供は元のものと並行になるように同じ間隔で並べるが、まず二列のおはじきが同数であることを確認する。次に、片方の間隔を広げて見せ、どちらが同数か聞く。この保存課題と呼ばれる実験では、五歳児以上では同数だと答えることが多いが、四歳児だと間隔を広げた方が多いと答えることが多いという。この結果から、幼い子供は見かけに判断した推論を行うのだという主張が生じたが、四歳児の子供に、同数と答える子供と広げた方が多いと答える子供の映像を見せて映像の子供がどのような意図でその答えをしたのか聞くなどの調査の結果、誤った答えを言う子供は広げる前の答えと違う答えを大人が求めていることを推測して答えているのだと判明した。この時点でもまだ興味深いが、まだ続きがある。広げたほうが多いと答えながらも二列のおはじきを一個一個指で対応させてみせるなど、矛盾した内容を話す子供もいて、このような子供は訓練すれば、矛盾した答えをしなかった子供よりも、保存課題や計算のテストで持続的に高いパフォーマンスを発揮することが分かった。つまり、一見して矛盾した答えは発想の幅広さであり、これは将来的に高い推論能力を産むということである。子供が不合理な言動を取ったとしても、それは必ずしも、将来合理的にものを考える能力が低い人間に育つということを意味しないのである。また例は、会話の文脈から目の前の状況とのつながりを理解する能力が幼い子供にも備わっているという注目すべき事実を示している。食卓で「醤油ある?」と質問されれば、それが醤油を求める言葉であると我々は推測するが、その種のつながりを把握する能力は子供にもあるのだ。となると、「撮ったのかよ」の例で示したつながりを見出す認識の能力は、実は相当幼い頃から備わっているということになる。実際、『探偵!ナイトスクープ』でも、幼稚園の子供にこのシャッター音を聴かせて、「撮ったのかよ」か「エイアイアイ」かで、子供たちはほぼ半数に分かれていた。
 
脚注:
※1 スティーブン・ピンカー『心の仕組み 上』(ちくま学芸文庫
※2 オリヴァー・サックス『火星の人類学者』(ハヤカワノンフィクション文庫)
※3 朝日放送探偵!ナイトスクープ』2006/12/22 放送『携帯電話からエーアイアイ!?』
※4 デイビッド・J. リンデン 『つぎはぎだらけの脳と心―脳の進化は、いかに愛、記憶、夢、神をもたらしたのか?』インターシフト
※5 ダン・アリエリー:我々は本当に自分で決めているのか? | TED Talk | TED.com
※6 スタニスラス ドゥアンヌ 『数覚とは何か?―心が数を創り、操る仕組み 』早川書房
※7 丸山圭三郎『言葉・狂気・エロス 無意識の深みにうごめくもの 』講談社学術文庫
※8 ニュートンが虹の色を「7色だ」と決めたって、ほんと?:
※9 L・ベンジャミン・ウォーフ『言語・思考・現実』講談社学術文庫
※10 大脳新皮質における神経新生プログラムの哺乳類と鳥類との進化的な保存性 : ライフサイエンス 新着論文レビュー
※11 内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書
※12 内田樹『街場の文体論 』文春文庫
※14 R.D.レイン『ひき裂かれた自己―分裂病と分裂病質の実存的研究』みすず書房
※15 スタニスラス ドゥアンヌ 『数覚とは何か?―心が数を創り、操る仕組み 』早川書房
※16 鈴木 宏昭『教養としての認知科学東京大学出版会