ものの区別という主観的な事実について

 大した理由があるわけでもないですがちょっと更新。僕は、「普通に考えれば何が正しいのかは普通にわかる」という主義はまったく間違ったものであると思うし、そのような社会通念は可能な限り相対化する努力をすべきなのだと思っていますが、そもそもなぜこのような「普通に正しい」というものの考え方が生じるのか。その由来の一つは、数学的なものの考え方が生活のあらゆる場所でも有効だという誤った発想にあるのではないでしょうか。
 僕は数学そのものが誤ったものだとは思いませんが、数学的な思考のすべてがすべての領域で有効なものだとは思いません。「普通」の由来となっている主な考え方とはおそらく、明確に述べられた前提があれば正しい論理によって明確な結論が正しく導き出される、という具合のものでしょう。
 実生活においてこれが成り立たない理由はいくらでも挙げることはできますが、まず「明確な前提」という部分はそう簡単に成り立ちません。人間が事実を正しく認識するのは実は非常に難しく、むしろ事実を積極的に曲解させるためのシステムが人間の心にはあります。そのようなシステムは素早く適当な判断を下すのに役立つこともありますが、そうでないこともある。人間の認識システムは理性的な考えにはそこまで適していないということです。実際、人間的理性とでもいうべき心のはたらきは進化上の歴史の中で非常に新しく若い存在であり、生物が長い時間をかけて少しずつなんとか体を進化させてきたことと比べれば、脳の機能はそこまで長い時間の進化を経てきたわけではないのだとわきまえておくべきでしょう。
 さて話を戻しますが、明確な前提を人間は認識できないということについて。その例としてまず挙げたいのが、分節という現象です。分節とはものごとの区切りや区別をすることですが、人間はどんなふうに説明されるかによって主観的事実が全く変わってしまうことがあるということがここからわかります。
 当たり前ですが、ものごとは着眼点によって様々な区別ができます。左から順にマシュマロと野球のボールとテニスラケットが並んでいたら、「白くて丸いもの」とそうでないもので分けることもできれば、「スポーツに使うものとそうでないもの」にだって分けることができます。あるいは皮膚だって、皮膚全体として扱うのかそれぞれ違う機能を持った層ごとに分けるのか細胞一つ一つで分けるのかとか、区別の基準を変えることはできるわけですね。こういった例については、何をもって区別してどこで分けるかに関して意識的に基準を変えることができるでしょう。しかし、これと違って、いったんある基準で分節されてしまうともう分ける場所を変えることが不可能だというくらいがっちり固定されてしまうこともあります。
 その一番有名な例が虹ですね。雨上がりのあと空にかかっている虹を見た時、我々はおそらくどうやって頑張って目を凝らしても、それが七色に分かれているようにしか見えません。事実七色の帯が弧を描いて並んでいるんだと捉えて問題なさそうなくらい、はっきり七つの色に分かれて見えます。しかし冷静に考えると、この色というのは光の波長に対応しているわけですが、虹の帯の端から端に向かって光の波長は徐々に変化しているのであり、明確な区切りはありません。赤とオレンジの区切りで大きなギャップが生じているわけではない。もし事実をそのままの通りに捉えるなら、赤とオレンジの中間の色が見えるはずだし、事実我々は生活の中でそのような色をさまざまなところで目にしています。にもかかわらず、そのような色は虹の中に見出すことはできません。しかしその色は確実に虹の中にあるのです。
 これは我々が、虹は七色であるという風に教えられて育ってきたことに起因します。この区別はあのニュートンが広めたものですが、そのような分節を教え込まれて育ってきたために、我々の虹に関する主観的事実は固定されてしまったのです。地球上のさまざまな地域で虹がどう見えるのかを調べると、七色でないさまざまな区別をしている民族があることが、この主観的事実の相対性を示しています。数学で与えられる前提のような、明確で誰にも等しい、すなわち公共的な事実を示しておらず、認識は必ずしも公正ではないのだとわかります。ちなみに言うと、昔の日本では虹は五色でしたし、沖縄では一部のお年寄りは虹を二色に区別しています。
 相対的な主観的事実が固定されてしまうわかりやすい例として他にあるのが、生物の区別です。人文科学の分野では、犬と狸がフランス語において区別されないというエピソードが有名ですが、僕たちが身近に経験できるものとしてはタンポポがわかりやすいかと思います。生い茂る雑草の中で、タンポポはよく見知っているために目立つ一方、他の雑草はあまり一つ一つの種を区別しないかと思います。よく観察すれば雑草の群れもいくつかの種が混在しているはずですが、それを意識することはあまりない。とはいえ、この例はタンポポの黄色い花が目立っているだけだという反論があり得るため、あまり有力な論拠とはならないかもしれません。
 分節に関するエピソードとして僕にとって印象深いのは、『火星の人類学者』(オリヴァー・サックス著)で紹介されている、長期にわたって視力を失っていた何人かの患者に関するものです。ここに登場する患者は、十数年とかいった期間視力を失っていた人たちですが、そのうち一人は指を使って(おそらく指を折り曲げて)ものを数えることができなかったといいます。五本の指があるのはわかっても、指の移り変わりがわからないという、我々からするとかなり不可解な事態が起こっていたのだそうです。
 また別の患者については、手術して視力を回復する前からわずかに視力があり、しかもいつもずっと犬を扱っていたのに、「頭、足、耳がどういう関係にあるのか、理解できなかった」と述べています。物を見てそれが視界に映っているから物の場所がわかるという当たり前の前提は、彼らにおいては成り立たない。
 もっとも示唆的なのは、視力を回復してから旋盤を見せられた患者です。最初、ガラスケースに入った旋盤が一体何なのかわからなかった彼は、それを取り出してもらって手で触り、そして「さあ、触ったから、もう見えるよ」と言ったといいます。
 この本のこの章において、患者たちは見えているものの分かれ目を認識するのにかなりの苦労をしているし、そして旋盤の例で分かる通り、視覚以外の感覚によって物の場所を理解しようとします。見えているからわかる、という理屈は公正に成り立つものではないのです。正常な視覚という能力の中には、慣れとでも言うべきかもしくは何か別の、つまり網膜に像が映るということとは別の何かがあって、それが意識に情報を与えているのでしょう。そこにものがあって、それがそのまま視野に投影されることが自動的に公共的な事実になるというわけではない。自動的ではないということは、当たり前だから普通に起こるのだ、とはみなせないということです。我々がものを見てどこにあるのかわかるということは、我々が身体的な認識で公正な事実へ無条件にアクセスできることを示すものではないのかもしれません。そう、この「無条件にアクセスできるわけではない」というところを、「普通にわかるわけではない」と読み替えてほしいわけです。
 最後らへんはあまり分節とは関係のなく、しかも我々自身にあてはめづらい例を持ち出すことになりました。このあたり、もっと実生活に即したレベルで述べるためにも、できるだけもっと本を読みたいですね。

 ところで、僕が分節という概念に慣れ親しんだのは、『意識と本質』(井筒俊彦著)を読んでからです。この本では物がもつ性質としての本質・マーヒーヤと、そのもの自体の個体制としての本質・フウィーヤについて述べており、現象学的に別物だとして書かれていますが、特定のある時点においての認識の中では、一つのものとそれ以外は、そのものが持つ性質すなわちマーヒーヤ的本質によって他との差異をなして区別され、これによってフウィーヤ的本質を体験するということもあるのではないかと思います。認識の中で物の個体性を成り立たせる一因に差異はあるのではないでしょうか。なにぶん難解な本ですので、誤読に基づく反論になっていたらどうしよう。