哲学はなぜ必要なのか(前)

 ここ一年くらい、色々な場所で色々な人と話す機会があったわけですが、その中で痛感するのは、やはり自分には知識とか教養とかいったものが足りていないということです。そりゃあ本はそれなりに読むけども、だいたい小説家志望者なら僕くらいの量は当たり前に読むし、もっと読んでいる人のほうがむしろ多いのではないでしょうか。読書に限らず、例えば映画だって僕はほとんど観ないわけで、音楽は散発的に色々なジャンルを聴いてはいるもののジャズとクラシックはまったく聴きません。
 そういう状態に危機感をもって、さっき図書館で十五冊ほど本を借りてきましたが、結局そのうち五冊は精神科医の笠原嘉さんの本で、また五冊は別の人が書いた精神医学の本というえらい偏り方をしています。どうも近頃、何かと立て込んでいるため頭を使って読まないといけない本を読む気力がないので、慣れたジャンルのものなら楽に読めるかなとこのラインナップになりました。
 ところで、この記事のテーマは「哲学がなぜ必要なのか」ですが、僕のように教養のない人間が語るにはあまりに大層な話です。ある程度哲学をかじった人ならわかるでしょうが、それまでなされてきた哲学の流れをわかっていなければ、この手の話題は拠り所がないせいかあまり密度のない議論をしてしまいがちです。つまり、哲学の歴史を踏まえなければ、個人の哲学は、どこにでもありそうないい加減な人生論を述べただけに終わってしまいかねないということですね。
 まあ、一切拠り所を持たずに話すわけでもないので、まったく意味のない議論をするつもりでもないのですが、哲学に明るい人からはどう見えるのかと考えると少し怖いところです。
 それでも僕が哲学について論じようとする理由──すなわち、自分が哲学をすることに意味があると思う理由、そして自分が哲学をする必要があると思う理由──は、後にも述べますが、珍しい発想をすることは非常に価値があるというところにあったりします(あくまで理由の一つであって、哲学が必要だとする理由は他にもあります)。
「すべての人は生まれながらに一定の権利を持つ」「人間は他の動物と同じ祖先から生じたものである」「自分が考えているということだけは、間違いなく事実である」「自分たちが住む自然の生き物を、大切にしなければならない」……このような発想は、すべてが完全に哲学のものだというわけではありませんが、しかしこのような発想はある特定の人によって発表されてから、それ以降を生きる人たちに対して非常に強い影響力を持ちました。その結果、以降を生きる人たちの、生活の仕方、何が正しくて何が間違っているかという判断、生きる上で何をすべきで何をすべきでないのかという判断は、大きく変化してしまったわけです。その理由は、きっとこれらの発想にそれなりの説得力があったからでしょう。
 しかし、珍しい発想をするだけでいいのなら、哲学でなされるような冗長で迂遠な議論や検討をする必要などないかにも思えます。実際、適当な哲学書を手に取って開いてみると、同じ話題についてやたらねばっこく検討するのにページを割いていることはそう珍しくありません。そして、そのねばっこい検討によって内容が遅滞しているとの印象を拭いきれない人もいるでしょう。しかし、それは必要なことなのです。

 僕がよく出す例に、「急がば回れ」と「善は急げ」のことわざがあります。この二つはまったく逆のことを勧めているため、ある一点で同時に併用するということは不可能だし、この二つを前に結局我々は、「回る」べきなのか「急ぐ」べきなのかわからないのです。その理由は二つあり、一つは、なぜそのような主張がなされるのか、その主張が成り立つ理由は何なのかがわからないこと、もう一つは、先の一つが不明なせいで、どのような場合にこれが成り立つのかが不明なことです。
 すべての場合に成り立つ一般論は、おそらくほぼないと思われます。我々が間違いなく正しいと思っている1+1=2という式だって、1Lと1mLのあいだでは成り立ちません。当たり前だと思うかもしれませんが、1という数字が二つ並んでいればすべての場合で1+1=2が成り立つというわけではないのです。この手の注意がなければ、一般論は現実で効力を失ってしまいます。そうならないために、珍しい発想が湧いてきたとしても、上に書いた二点を検討することは避けて通れません。
 実際、上に挙げた発想の一つ、「すべての人は生まれながらに一定の権利を持つ」についてもこれら二点の検討は避けられません。「すべての人は生まれながらに一定の権利を持つ」という主張はいわゆる基本的人権を唱えるものです。そして多くの国で、すべての国民に基本的人権が与えられています。
 しかし当然ながら、あらゆる場合にあらゆる人に基本的人権が与えられるとすると、問題が発生します。他人の人権を侵害する人がいた時にどうすればいいかという問題ですね。その問題の解決策の一つとして、刑罰があります。法律に反すれば、場合によっては投獄されることもあるわけです。つまり、人はその行為によっては基本的人権が与えられない、剥奪される場合があるということです。この場合を避けて通れば、おそらく世界は無秩序な野放図となるでしょう。
 そして人権についてのこの二点の検討、つまりどのような場合に人権を剥奪する刑罰を与えるべきなのかという審議はずっと国会でなされています。そして結論に落ち着くまでは非常にたいへんな紆余曲折がある。法哲学はある意味で、哲学の必要性がもっともわかりやすく浮き彫りになる場所と言えます。もっともこの言い分では法学のすべてが哲学の一分野となってしまいかねないので、哲学と法学は同じ必要性を一つ持つのだ、というくらいにするのが妥当なのかもしれません。
 このように、珍しい発想をするという役目と、そしてそれを検討するという役目、この二つがあれば、少なくとも哲学の必要性はいくぶんか確保できるのではないかと思います。とはいえそのような領域のすべてを哲学と呼ぶと、この現代ではやや語弊があるようです。哲学が発生した古代ギリシアではかなり広大な学問領域を包括して哲学と呼んでいたことだし、構わないと思うのですが、基本的には人文という呼称が用いられることが現在では多いようです。
 さてしかし、このように説明しても、やはり哲学は不必要なのではないかという感覚的な疑惑は完全に払拭できません。僕自身、そのような疑念から、哲学を毛嫌いしていた時期が高校生の頃にあります。そしてその感覚とはおそらく、自然科学があるのだから哲学はいらないというものです。
 上に書いたような、法律をはじめとしたさまざまな場面での判断は自然科学で扱えるものではありません。我々人間が行う営みには、自然科学の直接的な対象とはならないものや、どうやっても自然科学では扱えそうにないものがあります。人権についての判断はまさにその例ではないでしょうか。それでも哲学は不必要だと思ってしまうなら、すべてが数値化可能だとか、すべてが自然科学で扱えるという感覚が異常に根強くあるからです。
 ここ数十年で、人の心を対象とした自然科学は非常に隆盛を見せました。遺伝子の観点から行動パターンを分析したり、神経伝達物質の観点から思考や感情を分析したり、とさまざまな分野が出現していますし、おびただしい成果が生まれています。しかしそれでも、我々に課される判断がすべて科学技術で代替できる──これは本質的には、AIなどのテクノロジーが人間の代わりに判断するということでなく、どんな判断が正しいのかが基礎的な原理から完全に理解されて、それがあらゆる状況をくまなく網羅するということを意味します──という現状はまだ生じていません。
 さてここから、自然科学があってもしばらく人間には哲学が必要なのだということを述べたいと思います。そしてその主張の要は、やはり人間自体は自然科学のような妥当さを持った判断では生きていないということ、つまりは人間らしさは自然科学の正しさとは遠いところにあるということにあります。
 ここで少し、内容のつながりが切れるので、記事を分割して載せます。続きは次の記事で。