なぜ小説を書くことはしんどいのか

 小説家デビューを志望していながら、ここ数年ほど僕は小説を書くことに対して億劫な姿勢を取り続けていました。理由は一点、しんどいからです。単にキーボードを叩くだけならもちろんもっと楽ではあるのでしょうが、小説を書くしんどさは、他の頭を使う作業とはまた別の大変さがあるようです。
 おそらくこれは僕の小説の書き方によるところが多いでしょう。つまり、どういうことを考えて文章を作り出しているのかという過程や経路の問題ではないでしょうか。実際、書くことが楽しくて楽しくてやめられないという人もたくさんいるわけで、プロの作家にもそういう人は見受けられるようです。
 しかし僕はそうではない。書いている間はもう本当にくたくたになるし、胃や心臓が、痛みに耐えてもだえ苦しんでいるかのようにひくひく動いたり(本当にそのような動きをします)、背中からお腹に向けて異様に鋭い痛みが走ったりします。普通に机に向かって勉強したり、あるいは小説でない文章を書いたりしている時はこんなことは起こりません。僕にとって小説を書くという作業が際立って辛いものなのです。
 今回は、いつもとは違って具体性を欠く話の進め方になります。その理由は、具体的なエピソードに触れながら理屈を説明するのは思いのほか骨が折れるからです。いつもならその元気があるのですが、今回はひたすら僕がしんどいということを訴え続ける文章なのであって、つまりしんどいから泣き言をつらつら書くようなところに具体例を出してくるような元気はないということです。だからやや説得性や被共感性に欠けた文章になるかもしれませんが、ご理解ください。本当に小説を書くこと、書こうとすることはしんどい。
 では、なぜ僕にとって小説を書くということはそんなにしんどいことなのか。繰り返すようですが、これは僕がどうやって小説を構想しているかというところに原因があるようです。
 言うまでもなく、何かをしようとか、何かを作ろうとかした時、仮に目的や目標が同じものであったとしても、その際に起こる思考やその他の精神のはたらきは人によって異なります。まして小説なんて、最終的に書かれるものは人によってだいぶ異なるわけですから、過程で起こる精神的現象は本当に人によって千差万別でしょう。自分が過去に体験したことを思い出したり、あるいは自分がこうありたいという理想を描いたり、主人公以外のキャラを考えるにしても自分の知り合いを元にしたりあるいは自分を元にしたり、実際に文章を書く際も肯定的な感情を以って明るい調子で進めるのか、長きにわたって抱えていた屈託を表現するつもりで暗い感情に浸って書くのか……
 だいぶ単純化して書きましたが、こうして見るだけでも小説を書くときの内面の動きはだいぶ人によって異なるであろうとわかります。実際には、もっとたくさんの種類のことが、複合的に入り混じって働いているのでバリエーションもだいぶ多くなる。
 さて、では僕はどのようなことを考えて小説を書いているのか。僕は主に、内省を小説を書く上での基本としています。
 僕は自分のもっとも得意とすることの一つは内省だと捉えています。改めて内省とはどういう行為なのか説明すると、自分の過去や現在の、思考や感情といった内面、あるいは言動などを振り返って分析したり検討したりすることです。あの時ああいうことを思ったのはこのような感情によってではないだろうかとか、自分がいまこのような感情を持っているが実はそれは別のものではないのかとか、そういう捉えなおし方です。いわゆる精神分析みたいな意味合いが、僕にとっての内省では強い。もちろん、内省とは自分の中だけで完結することではなく、他人と自分の言動や思考・感情を比較して、自分の内面にある普通でない──正確に言うなら非標準的な──心理を見つけ出すことだって重要です。というのも、他の人と違うことをわざわざするのだから、そこには何か自分だけの特殊な原因・理由があるのだろうと考えられるからです。
 ここにおいて僕が常に意識しているのは、精神の持つ防衛機能ですね。いわゆる検閲という言葉で指されることのあるこの機能はどういうものかというと、精神は、自分にとって都合の悪いことを意識にのぼらせないというものです。
 実際に突き詰めてやってみるとわかりますが、自分にとって都合のいいような認識に流れようとするこの検閲というか誘導の機能は思いのほか強力で、なんとか頑張って抵抗しないと、自分の内面にある情念の因果関係を掘り出すことはできません。それらを明るみにするための手がかり足がかりとなるのが、人の心、精神のことについて研究した結果得られている知見の数々です。精神医学、心理学、神経科学文化人類学、哲学……まあ僕は精神医学以外については本当にかじっていると言えるかすら微妙な程度の知識しかないのですが、それでも有るのとないのとでは大違いです。
 無意識を含めた──と言うよりは、主に無意識の──内面のはたらきが、どうしてそうなったのかという因果関係の「因」が次々に浮かび上がってくる。また、「果」がどのようにもたらされたのかが明らかになってくる。このようなことを繰り返して、自分の内面を可能な限り理解しようとしていくわけです。もちろん、そこには単純に「精神の中で完結した」因果関係だけがあるわけではない。視覚の盲点などが象徴するように、神経の構造的な問題から、精神の現象にはところどころ直接的な線では結べない事態が頻繁に起こっています。だから精神分析的な観点だけでは了解できない、承服しかねることもたくさんある。そこは心理学や神経科学の出番ですね(まあ僕はおおざっぱな人間なのでこの辺のことを認知科学という名目で包括して理解しているきらいがあります。もっとそれぞれの分野の専門性へと特化した理解をするべきところなのですが)。
 さて、このような作業のしんどさは、まず自分の考えることや思うことを疑うというところにあります。さっき述べたとおり、人間の精神には検閲の機能があります。そしてそれは基本的に、精神の安寧を保つため、嫌なことを極力考えないようにするためです。
 考えるだけでも耐えられないことはたくさんあります。例えば、自分がものすごく嫌っている誰かが、自分の行動を支配しているのだとか、あるいは自分の思考のパターンがその嫌いな誰かに一致しているとか、まあいくらでもあるのですが、そのような「耐えられない」ことを実際に考えてみようとすると本当にとんでもなく最悪な気持ちになります。だから、普段でも、そのようなことを思いつこうとしてしまった瞬間、意識の機能はそれを扱うのを瞬間的に回避してしまいます。この、「あ、なんか嫌!」という回避能力はすさまじいものがあるのですが、ある考えが意識に上るよりも前に脳はその考えを用意しているのだと近年実験で確かめられたのは有名な話です(リンク参照)。つまり、ある「耐えられないこと」を脳のどこかの部分が用意してしまったら、それは意識にのぼることなく、意識は回避するのだというわけですね。この実験は、無意識の検閲のはたらきを、部分的に証明したということになります。
 しかし、検閲によって棄却された考えをなんとか発見するのが僕にとっての内省であって、だから辛いというのがまず一つ。そして、検閲はほとんど精神の安寧のために行われているのだから、発見がひとつあるたびに、「ああ、自分は今まで自分にとって都合の良いことばかり考えていて、こんな大事なことを無視していたんだな……」といちいち自己嫌悪せざるをえなくなってしまうのがもっと辛い。そしてそういう辛さに耐えながらさらに内面をえぐり出すのはもっともっと辛い。ひどい気分になるとわかっていながらも、それをさらに続けるというのはどうやったって苦行です。慣れることは今後もないでしょう。
 これは小説の本文を書いているときだって同じです。書いていて、まず思いつく言葉は基本的に、自分にとって都合のいい、適当に書いてしまうことが簡単な言葉遣いです。言葉遣いによって指し示す意味がまったく異なるのは以前の記事(こちら)で紹介していますが、自然と出てくる言葉のいちいちをしっかりと検討すると、この差は顕著に出てきます。つまり、簡単に思いついてしまう、さらっと出てくる言葉は、何かを隠蔽していることが多く、それはだいたい、「もっと深い内容を扱うために必要な労力」と、「自分の不都合な内面」の二つです。放っておけば、易きに流れて簡単に書けてしまう方向に書いてしまうし、自分にとって直視したくない事態はそう簡単に言葉にはならない。精神のはたらきは、不快さを排除した滑らかな方向に行くのがデフォルトなのです。それにブレーキをかけてやるわけですが、これがまた辛い。
 さて、実際に書いている時の労苦はともかく、小説の構想において僕は内省を主な手段としているということですが、では内省はどのように役に立つのか?
 隠された心理の奥底を探っていると、原因と結果として意味づけ整理できるものがほとんどなのですが、そういったものが次々に判明してくる中で、稀に、一体これは何なのかというものが浮かび上がってくることがあります。それはある情景のイメージだったり、ある想像上の人物の性格だったり、あるいは何かしらの命題だったりする。そういった、何なのかよくわからないものを小説に配置すると、理由は不明ですが非常に生き生きとした小説の姿が出来上がっていきます。
 前回、今年の三月に書き上げた作品で言うなら、「思い出すという行為の時間的なずれや重複といった非単純性を自覚したときに人は自分が自分であるということを自覚する」という命題は、内省して得た様々な内容の中で、際立って意味不明なものでした。これがどういうことなのか、つまり「思い出すという行為の時間的なずれや重複」がいったいどういうものなのか僕にはそうはっきりとは分からなかったし、なぜそれが自分自身についての自覚をもたらすのかはまったく不明だったんです。
 この他にも、たくさんのイメージを得て、紆余曲折の骨折りの果てに、僕は何とか小説を一本書き上げたわけですが、なぜそんな辛い思いをしてまで小説を書き、そしてそれを人に見せるのかという問いはおそらくあるでしょう。
 その答えは二つです。と言っても、二つの意味内容はほとんど同じだと思う人もいるかもしれません。一つは、やはり上に書いたとおり、人は自分にとって都合の悪いことは考えないという現実があるため、誰かが嫌な思いをしてでも不都合な真実を暴きだすべきだという使命感じみた蛮勇があるからです。しかし、暴きだすとは言ってもしょせん僕が勝手に考えたことなのであって、厳密な検討や自然科学における実証のような確度を得るための手続きは経ていません。だから、正確と誠実を期そうとしても限界があります。つまり、僕が勝手に考えることなんて、絶対的な正しさとは程遠い。
 もう一つの理由は、絶対性とは真逆のものです。小説は想像力を提供するものだからです。
 想像力という語彙は、末尾に「力」がついているため、腕力とか握力とかいった、数直線的な単一の物差しの上にあるかのように聞こえてしまいがちですが、そうではありません。想像力には、たくさんの方向性があります。例えば、物理学者が物体の動きを思い描く想像力と、動物行動学者が動物の振る舞いからその原因を想像する想像力とでは異なるものだとわかってもらえるかと思います。つまり、僕には僕の想像力があるのであり、そして、嫌だから意識によって避けられるという原理のためになかなか想像されないものについては頑張って作家が描き出すことでその種の想像力を提供するべきだという、また別の使命感じみた蛮勇があるからです。名前を聞くだけでも嫌だというくらい嫌いな他人の考えていることを推し量ったり、思い描くだけでも苦痛なくらい悲惨な事態に備えたりすることは、実際に必要であったりするし、それができるかできないかの差は非常に大きいでしょう。
 あるものごとを考えの対象にするのが嫌だ、という原理がはたらいた結果、不都合な現実を否定する現象を精神医学ではディナイアル<否認>と呼びます。そしてそのディナイアルのために、たくさんの人災が世で起こっているというのが、精神医学者の大方の見解であるようです。その例としては、戦争、恐慌、公害、その他枚挙にいとまがないと言っても過言ではありません。
 想像力のすべてを、この場合はこの想像力が有効だという風に絶対性のもとで分類して重要性を付与することははっきり言って無理です。現実には何が起きるかわからないし、人間は何を思うかわからないからです。だから、できる限りさまざまな想像力が世に示されるべきである、それこそが文学、哲学、人文、文化といったものの使命ではないでしょうか。

 

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