自然な理性のはたらきは簡単に誤ってしまうということについて

 大したことではないですがちょっと更新。人間の自然な理性のはたらきは往々にして誤っています。認知科学で出てくる、いわゆるヒューリスティックスに限った話ではありません。自然科学という成果はその反例として挙げられそうですが、それは誤りです。なぜなら、自然科学は人間理性が単独で作り出したものではなく、理性と自然が共同して作り上げたものであるからです。
 実際、自然な理性のはたらきからすれば誤っているようなことが自然科学として正しいということはあります。科学者はそのような事態、あるいは、自分の推論が誤っていると示すような事態と、それなりの頻度で直面しています。それは例えば仮説を実証しようとして予想外の結果が出たときであったり、正しいと思った数式が正しくなかったときであったりします。つまり、自然科学は、人間と自然との共同作業なのです。人間が誤っている時は、自然がその誤りを示すことによって自然科学は発達したのであり、これは言ってみれば自然の側がアイディアを出しているのと同じような状態にあります。
 実際、人間単独では、科学者であったとしても誤った考えをしてしまいます。物理学者の思考実験のいくつかはそうでしょうが、「シュレーディンガーの猫」はそのもっともわかりやすい例ではないでしょうか。
 僕自身、今までにしてきた哲学的な営みがしんどかった理由はここにあります。つまり、自然な理性のはたらきをするゆえの誤りをしないように、意志の外力をもって不自然な理性のはたらきをしようとしていたということです。その外力はそれなりに感覚的なものであり、また自然な感覚にも反したもので、「普通に考えて出てくる結論はすべて誤っている」とでも言うような立場の元、違和感のある論理立てや結論はすべて棄却してきたということです。そういう風に自分の考えを訂正しては捨て、無効なものとして消し去ることで自分の思考を否定するのは本当に心へのダメージが大きい。
 ここ数日、そういったこともあって、身を削ってまで哲学的な営みを新規にするのはしばらく控えようと思ったところです。今現在書いている論文を仕上げたら、しばらくは、今までほどには辛い思索を無理してまでするようなことのない生活を送りたいと思います。それにしても最近泣き言が多いですね。まあ人間、そういうときもあるのでしょう。